影法師

自分が読んだ本の感想を書くブログです。
優しいコメントは大歓迎です。
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海の霧
海の霧        坂口安吾       1931年作


この小説のようなものについては何も書けないわね。
男女の旅のいきずりを描いただけのものだもんね

二人はもう心中しか選択肢は残されていないかも知れないが、なんとか生きていたい。
その渇望を描いた文章なんでしょうか。
そしてその恋の終わりの暗示として

・ 尊敬は恋愛の畢りなり

という言葉に繋がるのでしょうかね
帆影
帆影        坂口安吾         1931年作


この作品は、小説というより詩のようなものですよね。
綺麗な女の人と海岸で過ごす日々。
それだけじゃないですか

・ こんなにウルサガレテいながら、この溌剌とした美少女が私のような痩せ衰えたやくざ者の身辺を立ち去らないのは実に不合理である。

つまりはのろけ話なんだ。

・ わたしを放さないでね。わたしを愛してね。わたしは淋しいの。いつもあたしを放さないでいてね………
黒谷村
黒谷村        坂口安吾        1931年作


矢車凡太が蜂谷龍然を訪ねて黒谷村に来た。

凡太さん黒谷村に入ってみると、

・ 蕨を乾かしている娘から明かに秋波を送られた経験もあった。その後凡太は、色々な場所に色々な様式で、之と同じ様式で、之と同じ事情に幾度となく遭遇した。

ハーレムの予感?
龍然さんの寝屋からは、

・ うむうむと頷く声が聴こえたり、日本の裏手は北亜米利加ではないだろう等と、愚にもつかない話声も洩れてきたりする。

卑猥な予感?
そして凡太は龍然の女の訪問を受ける。夜這を受ける
ドキドキしながら読んでも、この場面の描写は哲学的。

・ 凡太は彼の一生に於いて、恐らく最も孤独な、あらゆる因果を超越したただ索漠と迫ってくる一つの虚無、ー何か永劫に続いている単調な波動を、やりきれぬ程その全身に深々と味わってしまうのであった。

これ濡れ場の描写なんですが、分かりますか。
女は女衒に会って、そのことを知らせに龍然の元に訪れたのだ。

その後、凡太が酔って啖呵をきったりして、そして夏の終わりに龍然とその女とも別れた。

こんな話なのかなあ、淡々と描写が過ぎ、一夏過ごしただけだったわね。
期待感があったののだが、ちょっと残念
木枯の酒倉から
木枯の酒倉から      坂口安吾       1931年作


選集を読んだけど、まだまだ安吾先生については興味は尽きないし、「木々の精、谷の精」みたいな素敵な作品にも出会いたいと考えて全集を探索することにした。
選集みたいに、選ばれたものではないので、自分の手には全く余りますので、これはあくまで備忘録です。
なので、感想じゃありませんので、あしからず。
安吾先生は現在古書でも人気で、なかなか思うようなものが手に入らないので、手に入れることができたものから探索します。あまり評論とか後期作品は興味がないのでとばすことになるでしょうね。

そしてこの「木枯の酒倉から」
安吾先生の処女作らしい。
これ発表していいのですか、何書いているのか分かりません。
武蔵野を散策していた作者の元に怪物とも見えるような男が走ってきて、とりあえず作者が跡を追って、追いついた、そこからその男の話を聞いてみると、男の独白に変わり、その独白は酔っぱらいの話だった。酒倉がどうのこうのと、読んでいる自分も何なのかよく分からないようなもの。そして唐突にその男が気絶して終わってしまう。

あっちゃ、前衛小説だ。
酔っぱらいの脳内散策だ。
やるねえ。でもこんなもの発表して大丈夫なのかなあ。
ただの駄文。本当に駄文に過ぎないのかも。
いやいやこの小説こそ、日本文学の傑作なんだと言われたら、そうなんだ。
とも言えちゃうかも。
集英社版日本文学全集「坂口安吾集」総括
この選集の収録作品を全部読んだので、総括をしておこうかな。
自分が一番好きな作品は、やはりというか、「木々の精、谷の精」ですね。
この作品は男性限定、特におじさんに対し堪らない魅力を放っている。
その光線に当たられた者は、幸せな気持ちになる。最後葛子さんを死なしてしまったのは頂けないが、本当に良い作品です。
誰か筆力のある小説家が、その後の話を書き次いで欲しい。
自分的には「スラムダンク」よりもその続編を切望しています。

そして安吾先生の心に残った、この選集の中の言葉では、

・ 「まあ、綺麗だこと! 志緒乃! 着物をきちゃ、だめ!」

なんて周りを明るくしてくれる言葉なんだろう。
着物をきちゃ、だめ。 自分の頭の中でしばしばこの言葉がリフレンしています。
自分は、安吾先生が述べるところの心に病ある人なんだと実感。
そして、そういう心に病ある人の為に、安吾先生の作品はあるのだ。

なので、心が健全な人、若者たちは、安吾先生は読まない方が良いと思うわね。

他好きな作品は、「青鬼の褌を洗う女」
このアイロニックな強烈さは、読む人を選び、
・ 女は恋人に暴行されたいのだ。
なんていう言葉を吐く。
これも安吾先生。

評論や歴史者は、個人的には、いまいちだったかも。
青春論
青春論       坂口安吾       1942年作


これが集英社版日本文学全集坂口安吾集の最後の収録作品だね。
これは評論。
何を書いているのか、読んでいてなかなか分からず、あっちこっち逍遥したところで、どうやら宮本武蔵を題材にした青春論みたいだったと分かったわね。


・ 女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距離について、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われがたいものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、そのだいじの肉体が凋落しては万事休すに違いない。

女の人は怒り心頭になるかも。


・ すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心を病める人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。

安吾先生はこう自戒しているのに、心に病なき者であろう者=子供に対して、安吾先生を読ませようとする人がいるのだから、困ったものだねえ。

そして宮本武蔵の剣法を

・ つまり彼の剣法は凡人凡夫の剣法だ。覚悟定まざる凡夫が敵に勝つにはどうすべきか。それが彼の剣法だった。

・ 何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用できるものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、またどんな点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編み出した剣術だった。

・ 剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶好面で賭博している凋落の術であり、奇蹟の術だったのだ。


堕落論
堕落論        坂口安吾     1946年作


これも小説ではなくて、評論というものでもなく、メッセージだね。
このメッセージに感想を書くというのは困難だね。
論旨は、
焼け野原になり、生き残った者は、戦時中のことを忘れ、戦前中の過度の思想などは忘れ去って、これから力強く生きよ。
ということなんでしょうね。
戦後即、あらゆる価値観逆転の時代、それでも立ち上がり、空腹を満たし生きつづけなければならなかった時の言葉であるので、今の時代から、そのことでなんら言うことないですね。

・ 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だから人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。   
日本文化私観
日本文化私観      坂口安吾      1942年作


これは小説ではなく評論。これについて書けるほど自分は学識は無いので書くことを放棄したいのですが、敢えて書いちゃうと。
面白いわ。安吾先生。またまたやってくれちゃいました。
ですね。
必ずしも安吾先生に同意はできないけどね


・ 僕は舞妓の半分以上を見たわけだが、これぐらいばかばかしい存在はめったにない。特別の教養を仕込まれているのかと思ったら
、そんなもの微塵もなく、踊りも中途半端だ。

この後まだまだ罵詈雑言が続き面白いのですが、舞妓の皆さん気を悪くしないでね。安吾先生の言葉なんだからね


・ 寺院は、建築自体として孤独なものを暗示しようとしている。炊事の匂いだとか女房子供というものを連想させず、日常の心、俗な心とつながりを断とうとする意志がある。しかしながら、そういう観念を、建築の上においてどれほど具象化につとめてみても、観念自体に及ばざることはるかに遠い。

かなりひねくれていますね。


・ 竜安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていてもかまわない、石の配置がいかなる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が涯しない海の無限なる郷愁や砂漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時は、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない。

かっこいい。最近テレビとかでよく放送される庭師とかが出てくるの番組を有り難く思い深淵なことを述べているなあというのは、間違いで、自然に負けていると感じれば無視するべきなんでしょうね。
なんでもありがたがる風潮の批判なんでしょうね


・ 秀吉においては、風流も、道楽もない。彼のなす一切合財のものすべてがすべて天下一でなければ納まらない狂的な意欲の表れがあるのみ。ためらいの跡がなく、一歩でも、控えてみたという形跡がない。天下の美女をみんな欲しがり、くれない時には千利休も殺してしまう始末である。あらゆることにだだをこねることができた・

やっぱり美女の問題なんだ。


・ 僕の仕事である文学が、まったく、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は特に美を意識してなされたところからは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」が求めたところの独自の形態が美を生むのだ。

反論は、学者の皆さんに任せます。
が個人的思ったことは、文学を持ち上げすぎ。
安吾先生のこの本は少し問題があることが書かれすぎかも。
狂人遺書
狂人遺書       1955年作        坂口安吾


この小説は、豊臣秀吉を主人公に一人称で語ったもの。
はじめ読み始めて誰のことなんか分からなかった。
安吾先生の晩年の作品で、落ち着いていてしっかりした作品だね。
題名はきついけど、今までの安吾作品とは違っているわね
この小説の題材も小田原征伐、そして朝鮮出兵と、歴史的経緯はよく知られている馴染みの題材。
ああだ、こうだと思いながら読める楽しめるものだわ

秀吉の一人称にオレというのは似合わないかも。

・ オレは人に勝つまでは、勝つために努力し、勝つことを目標に策をねるだけで余念のないユトリある男であったが、すべてに勝った今となってはじめて失う怖れに怯える心を知るようになった。

秀吉が語ったとは思えないかも


・ 奴めは知らない。オレが戦争を起こすのは海外統治のためではなくて、ただ貿易再開のためだということを。だからこの戦争はきわめて短時日で終わらせるのだ。軍隊をやって威勢を見せて、貿易を再開すれば終わりだ。

そうだったんですか秀吉さん


・ 小西のような奴がでて確信のカタマリのようなことを言うと、何がさて皆々自信がないからひきずられやすい。バカな奴ほど確信ありげに乱暴な戦法を主張しがちで、それに引きずられると戦争は負けだ。

これは、第二次世界大戦の失敗のことを言っているのだね

朝鮮出兵の失敗、秀頼の将来への期待そして不安を述べて終わっているけど、以前の作品のパワーはないが、よく練り上げられた小説だ。
でも、パワー不足なのは自分的にはマイナスかも。
桜の森の満開の下
桜の森の満開の下      坂口安吾     1947年作

ついに出たよ、最高傑作。
こんなもの感想書けないよ
とあっさり終了してもよいのですが、何やら書いていきますと。

内容は
鈴鹿峠に住んでいる山賊が主人公で、この男は7人の女房を持っていた、8人目を浚ってその亭主を殺したのだが、この女がとても美しかった。この男はそのことで幸福を感じた。その女の指示で今までの女房を一人を除いて殺してしまった。女は大変なわがまま者だった。女の希望で都に住むことになり、男は女の指示で生首を取ってきた。女はその生首で遊んだ。都で男は退屈した。ある時男は山に帰ると言い、女は反対したが、結局従って山に帰った。桜の森の花さかりのころだった。ふとおんぶしている女を見ると、紫色の顔をした老婆に見えた。男はその首を絞めて殺してしまった。そして霞んでいた目が元に戻ると、女はあの女だった。

なんのこちゃ
これでは分かりませんがな
でもこういうようなストーリーですねん。

この小説は、孤独について書かれた寓意的な小説なんでしょうね
その孤独というのが、普通の人の孤独ではなく、捕食者の孤独。食物連鎖の頂上に立つ者の孤独の話。
山賊という人を殺すのを厭わない者が、その強者であることによって、仕えている者に生きる意義と仕事を与える。それが恐怖によるものであっても、その男に仕えている者は、生きる意味を見出せる。
退屈していた男が、女に仕えて見て、凡人のように生きる意味を見いだせるかやってみた。するとそこにも退屈があった。
ということなんでしょうか。

分かりませんね。凡人にはね。
でも、そういうイメージを読者に与え、思わぬところに読者を連れ出すのが、文学の力。
小説を書き処理することが、けっして上手くない安吾先生以外の人が、この題材を書けば、例えば太宰や谷崎がこの題材で書けば、もっと凄まじいものになったかもね。