影法師

自分が読んだ本の感想を書くブログです。
優しいコメントは大歓迎です。
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赤毛のアン
赤毛のアン    モンゴメリー 村岡花子訳          新潮文庫  



私生活で、悪いことにに度々出くわし、人間不信を覚えるようにもなってきた。
それでは拙いので、元気になれそうな本を読んでみることにした。

有名な本なのだが、少女向けということで敬遠はしていたんですけど。

やっぱり面白いし、非常に元気を与えてくれるものでしたね、ただし人間不信を無くさせるようなものではなかったですね。
アンのスタイルは、気の合った人を見つけるというものみたいで、気が合わないジェシー・パイとまでは無理してでもうち解けてはいませんし、ギルバードとは最後まで和解はしておりません。

ジェシー・パイが、共進会で一等を取り、素直にその受賞を喜ぶことができた、その事実をもって、自分が良きものになりつつあると悟る。
というところも面白いですし、独特の考え方でもありますが、アンのように、このように思えるようになりたいですね。



・ 全身これ「活気と火と露」にようなアンであったが、人生のよろこびも苦しみもアンには三倍も強く感じられた。これを見ているマリラとしては、アンの運命の浮き沈みの中で、どんなに激しい苦しみをしなければならないかと思うと、言い知れぬ不安を覚えるのだった。

感受性が人一倍強いこと、その得失を正確に考え、その行き末を案ずるマリラ。この話の見据えている地平は、広くて、人生に自分なりの意味を考え、問い続けている、マリラとマシュウに育てられたアンの幸福は、大きいと言えますね。



 まわりには大きな柳の古木や、丈高い縦にかこまれ、その下には、日かげを好む花が咲き誇っていた。きれいに貝がらでふちどった、小径がぬれた赤リボンのように庭を縦横に走り、小径をはさんで花壇には古風な花が咲き乱れていた。ばら色のブリーディング・ハーツ、真紅のすばらしい大輪の牡丹、白くかぐわしい水仙や、棘のある、やさしいスコッチ・ローズ、ピンクや青や白のおだまきや、よもぎや、リボン草や、はっかの茂み、きしゃな、白い羽根にような葉茎を見せているクローバーの花床、つんとすましかえったじゃこう草の上には、燃えるような緋色の花が真っ赤な槍をふるっている。

はじめてダイアナの家に行くときの、ダイアナの家の描写なんですけど、花とりどりですね。この物語は、自然の描写が入念です。
花を愛する人というのは、どこかしら平穏な気持ちも持っていると言えそうですね。



・ マリラ、明日がまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うとうれしくない?

失敗ばかりしているアンの言葉。
前向きですね。



・ ちょっとしたほめ言葉が、ときにはありとあらゆる良心的な教育をよせ集めたと同じくらいの効果を、あげることがあるからである。

その通りだと思いますが、世の中ギスギスした人なかりで、ままなりませんね。



 「お前のロマンスをすっかりやめてはいけないよ」とアンにもじもじしながらささやいた。
「すこしならいいことだよ。  あんまり度を越したらいけないがね。もちろん 。だがすこしはつづけるんだよ。アンや、すこしはつづけたほうがいいよ」

アンが数々失敗を反省し、ロマンティックすぎを直そうとしたことに対する、マシュウの言葉。
マシュウの愛情を感じるとともに、懐の大きい人物であると感じられます。そういうことを言える大人は、世にはほとんどいませんわね。



・ もしアンのような子をいつも置くとけるなら、あたしだってもっとしあわせな人間になることだろうに


ミス・バーリーの言葉。
そういうことを人に言わせる人間になりたいものですし、若い人にはなって欲しいですね。
この話の離着点は、精神的なものが強いですね。
その人の心掛け次第で、世の中は楽しくもなるし、辛くもなる。
それを気づかしてくれる存在がアンなんですね。
マリラ、マシュウ兄弟は、アンを天から戴いた存在として神に感謝する。
誰もが、本来そうあるべきなんですが、そうじゃないのが現実の世でありますが、そういうものだと気づかせてくれる本ではありますね。

ミスターブレイン第六話をみた そして刑事コロンボのことも
 ミスターブレインの放送時間帯に、刑事コロンボも放送しているので、いつも刑事コロンボを自分は視ており、ミスターブレインは録画しております。
続けて謎解きものと言うのは、自分の頭には優しくないので、録画したのを置いておくことになります。

すると、そのうち視ようとか思っていると、見逃してしまいっている回もあったりします。なので第五話を飛ばして第六話を視てしまいました。

このドラマ一話完結ではないみたいなので、前回の放送の続きになっている部分をありそうだけど、そんなに気にしなくてもいいのかも。

多重人格ものでしたね。
自信喪失した刑事が科捜研にいて、その刑事さんが推理するのを、踏まえて主人公の九十九さんが正しい推理するパターンがあるのでしょうか。

豪華な俳優陣にそれぞれのを役振りするのに、苦労しているみたいですけど、整理はしっかりしていますね。
それぞれ性格付けは、しっかり為されています。今人気の水嶋さんを、ちょっと情けない奴みたいに配したのは、女性から苦情があるかも。

ミステリーの世界では、多重人格を扱ったものを多く、うるさ型の人の知識は、実際の警察以上なのかもしれないので、厄介な案件ですね。
どうして多重人格が発生するのか、という経過とかを、自信を失って科捜研に来た刑事に説明させているのは、面白かったですね。
極力、多重人格に踏み込まず、そのさわりで満足させる手法は、手練の技ですね。

脳科学というよりも、精神分析の世界ですもんね
テレビドラマの一つの話にしては、色々なエネルギーが使われておりますね。
俳優さんの熱演。仲間さんはは特に気合いが入っていましたしね。

良かったのじゃないでしょうかね。
と自分は思いました。が、ごちゃ、ごちゃしているので、万人受けではないのかも。とも思いましたがね。
さわり、のようなものを感じさせるんですが、実際は、それほど深淵ではないもの。
ある意味テレビ的な作品ではありますが、ニュートレンドなのかどうかは、自分には分かりません。

対して、同時間帯に放送している刑事コロンボは、たっぷり人間味がありますね。
傲慢な人間が、犯罪隠しに躍起になり、コロンボに少しづつ追いつめられていくパターンは安定しています。
このドラマを視て、日本のドラマを比較をして感じることは、
組織、システムというものは、万全ではなく、それを使う人間によって歪められるものだということ。
その認識が日米両国では、違っていることですね。
悪人はどこにでもいる。
ですが、日本人は、アメリカ人よりも割り切ってはいないとは言えそう。

コロンボとかで、メディアとかの大物の犯罪を暴いたり、自分のバカ息子をかばう為に犯罪を起こしたりするパターンがよくあるのですが、日本には、そういうものはメディア界では描きませんね、

例えば、コネで入社したバカ息子を、テレビ局内の大物がかばうような犯罪は取扱いませんね。
実際ありそうですよね、そういうドラマを作れば面白いのですが、日本ではそういうのは企画ですらあがらないでしょう。

対してコロンボとかでは、そういうものを扱いますし、親バカも出てきますし、教条主義的な軍人もい出てくるし、いろいろな悪い奴が出てきます。

悪い奴が運営する組織でも、人が変われば改善するという意識が、アメリカ人にはあるのでしょうか。
ドラマを視た後は笑ってすませることができる、冗談で自分たちの姿もカリカルチャ化できる。
アメリカ人の逞しさも感じますね

日本のドラマに切れ味がないのは、メディア自身が自分たちの姿でさえ、カリカルチャ化して描けないところにあるじゃないかしら、

二時間ドラマで、よく扱われる、日本の伝統工芸の家元の恥部とか、警察の暗部とかは、本来のあるものより、違った方向への発露がそういうものを作らせるのじゃないかしら。

実のところ、そういう伝統工芸の人や警察の人たちの方が、そういう姿を笑って受け入れることが出来ているのだから、逆に開かれた世界の住人とも言えるでしょう。

日本のメディア自身が、象牙の塔の住人になっている。
このように思うのは、刑事コロンボの権力者に踏み込んでいく鋭さを思うと、どうしても自分は感じてしまいますね。
ただいまこのブログの検索語ベスト5は、……不本意です。
 自分は、基本的に状況に流される人物なので、アクセス数の多い言葉に左右されます。
只今の検索語ベスト5は

1,ラフマニノフ鐘
2,キャノン先生トばしすぎ 
3,浅田真央
4,JAPANデビュー
5,叛旗兵

圧倒的一位に「ラフマニノフ鐘」が躍り出ました。
去年のキム・ヨナさんの「死の舞踏」が、未だに根強くアクセスがあるので、フィギュアスケートの本命の浅田さんなら、どうなるのか。と試しに記事を書いてみると、とんでもないことになってしまいました。

ライトノベルの本の感想の軽い百倍以上の反響に、考えさせられましたね。普段の記事は、無人の野を行くさすらい人のようと言えばいいのでしょうか。(名曲探偵アマデウスのシューベルトの「さすらい人幻想曲」の回は良かったですね。)

世の中の関心には、偏りがありますね。
自分は昔からのクラシックファンであり、ラフマニノフとかも昔から聴いているし、いろんな曲の自分なりの感想もいろいろ持っているし、思いでもある。
フィギュアスケートで使われる曲にも、自分にフィットしたときだけ反応するだけなんです。

バイウルの伝説の演技、サンサーンスの「瀕死の白鳥」とかを観たときは、ひゅあー、ひゅあーと思いました。
自分は、そういう種類のミーハーなんですわ。

だから、ひゅあー、ひゅあーの一貫で、知りもしない曲の唐変木な感想を書いたりもできるんですわね。


日本におけるフィギュアスケートの人気って凄いんですね
 自分は、クラシック音楽が好きで、クラシックを扱ったマンガとかもよく読みます。
フィギュアスケートも、バックにかかる音楽がクラシックだから、よくその競技も見ます。
が、ど素人なので、恣意的な解釈で見ております。

フィギュアスケートでは、五輪開催地に左右されるものが多いのが特徴ですね。
トリノでは、イタリアということでプッチーニのものが多かったみたいです。
次回のカナダでは、有名な作曲家はそんなにいないみたいで、そういう縛りはないようです。

田舎のおっさんが、ちょこちょこと書いただけで、かなりのアクセスがあるということは、フィギュアスケートの関心に較べ、クラシック音楽の関心が少ないことの表れかも知れませんね。

このことには、苦笑してしまうかも。

盲目のピアニストの辻井さんが、ピアノコンテストで優勝すると、その一事で大騒ぎになり、その演奏はどういうものなのかということに対する感想は、貧弱なものしかありませんでしたね。
誰でも、耳があるのだから、凄いですね。感動しましたという言葉以上の何かの考察が少ないような気がしました。

では、お前は辻井さんの音楽を聴いてどう感じたのか、と問われれば
感動しました。としか言いようないのですが、
コンクールで優勝してもおかしくない演奏だなあとも思いました。

コンクールで優勝するというのは、盲目であるということなど関係なく、演奏スキルによって採点されるものです。そういうところは海外のコンクールでは厳粛であって、その点をクリアしなければいくら感動的な演奏、音を響かせてもダメみたいです。
辻井さんは、そこのところは見事にクリアしていました。
そして、自分が辻井さんの演奏が素晴らしいなあ。と思えたところは、日本人が演奏しているなあと思えるところもあります。
音楽の日本化というのは、どういうものなのかというのは、全く分かりませんがね。
日本の文化の中で育って、それが海外で認められたような感じもして、嬉しくもなりましたね。

このブログのフィギュアスケートの記事を書いてののアクセス数上昇は、一過性のものに違いありませんね。
それにしても、日本人の多くはラフマニノフを聴いてどう思うののかねえ
あくの強い音楽ですよね。
のだめカンタービレでは、千秋さんも演奏していましたよね。
多くの人は、おおぉと思うだけなのかしら。
個人的には、ラフマニノフがこれだけ受けるのら、プロコフィエフももっと受けてもいいと思ったりもするんだけど、日本ではいまいちですね。中野友加里さんが演じたプロコフィエフの「シンデレラ」は面白かったんですけどねえ。もっと親しまれていいと思うんだけどねえ


世に慮ばかった記事を書いてみると タイカップのことも
 先ほど、浅田真央さんの今年度使う曲について記事を書いた。
以前、キム・ヨナさんが使った曲について書いた記事にアクセスが多かったのを意識して、受け狙いで書いてみた。
狙いはピッタリ当たりましたねえ。
このブログ開始以来の最大のアクセス数です。

このブログは、ライトノベルの簡単な感想を主に書くつもりで始めたもので、自分は他にブログを書いております。このブログはスピンオフですが、こちらの方が大きくなってしまいました。

こちらは毎日更新といかず、不定期更新で、本を読んでいないときは休眠です。
あまりに、しばしば休眠すると拙いので、テレビ番組の感想とかで凌いでおりました。

元々ブログをやっているのは、閑潰しなので、高尚な目的、低位の目的など何もありません。
それに、大それたことは、極力言わないようにも自戒しております。

自分のライトノベルを読むスタイルは、集中型みたいで、毎日コツコツではないです。
そして今旬な本の発掘などは行っておりません。全然目利きじゃありません。
自分の好きなテリトリーに狙い撃ちしているだけです。
何が優れ、何が面白いのかは、自分には分かりません。
西尾維新先生の面白さも自分は分かりません。

本来、本を読み進め、自分にとって面白い本の発見は、個人的体験に過ぎません。
一種のサルベージみたいなものでしょうか。
自分の好きな本は発見みたいなものです。
喜ばしい体験とも言えましょうか。
小さな幸福とも言えます。

しかし、サルベージなのですから、潜っても発見できないこともあります。
他人が面白いと思い人に薦めているのに、自分は発見できなかった。
よくありますねえ。
そこで、他人の読み方が間違いで、自分の感想が正しいと思うのは、慎むようにしております。

自分の知らない世界があるんだ、それは素晴らしいものに違いない。
そう思うようにしております。
なので、ダメだという感想には、距離を置いておこうとはしています。
中には救い難いものもありますが、それらも極力貶さないようにしております。

この前読んだ小谷野先生の本は、明らかにやりすぎですね。
文学上の名作なんて、時の試練に耐えて残っているものばかりなんだから、個人の思いつきだけで、貶し批判しても、限界はありますわね。
それでもあえて、ああいう本を書いたのは、それなりに意義はあるとは思いますが、感心はしませんね。自分の好きなものだけ、薦めていれば良かったのではないでしょうかね。

有名な風の書評の百目鬼先生は、褒めるよりも貶す方が多く、筆鋒鋭すぎて、文学界では恐れられていました。
その百目鬼先生が褒めた本は、鉄板に面白いのも事実で、自分などは褒められた本を探して古本や巡りをよくします。

田舎に住んでいるメリットとしては、偶に掘り出し物を発見できることです。
せどり氏の出現で、めっきり少なりはしましたけどね。

最近ある田舎の古本屋で、百目鬼先生が褒めていた「タイカップ自伝」があった。
隣りに「ベーブルース自伝」「ジャッキー・ロビンソン自伝」があったのだが、「タイカップ自伝」しか目に入らず、早速買って、本屋の外で小踊りしてしまった。
後日、「ベーブルース自伝」も「ジャッキー・ロビンソン自伝」も買うべきだったと思い立ち、わざわざ100キロくらい先のその町の古本屋に行った。
そこで、やはりというか、もう残りの本はなかった。
悲嘆に明け暮れました。

でもワシには、「タイカップ自伝」がある。
タイカップは、十年ちょっと前に作られた、「タイカップ」という映画が、タイカップのを歪んで姿を伝えている実情を、ネットで調べたときに知った。
義憤にかられましたねえ。
野球関係者は、今すぐ日本におけるタイカップの名誉回復に立ち上がるべきだ。
このように歪んだ人間像で伝えられるのは、フェアーではない。
「タイカップ自伝」を読む限りそう思いました。

誰も知らない世界で、誰に対して怒ってりるんだ思ったりもしますがね
このタイカップについては、いろいろ書きたい事がありすぎて書き切れませんね。
毎日タイカップとして、日々感想を書きたいくらいです。

アメリカの野球人って本当に個性的ですね。
自分の大好きなテッド・ウィリアムスもそうですね。
どうしてこうも好きななのか分からないくらい好きですね。

とりとめのない話をしてしまいましたね。
そのうちタイカップについては、いろいろ書くつもりはあります。
浅田真央さんが、今年採用するラフマニノフの前奏曲「鐘」について
 浅田真央さんが、今年フィギュアスケートのフリーで採用する曲が、ラフマニノフの前奏曲「鐘」になったそうだ。
自分の知らない曲ですね。
コーチコーチのタラソワさんの秘蔵の曲らしい。
ロシアでは、有名な曲なんでしょうか。
日本でも知る人ぞ知る名曲なんでしょうか。

ラフマニノフと言えば、なんてったてピアノ協奏曲第二番ですよね。
フィギュアスケートでもよく採用されている曲ですよね。
ラフマニノフには、隠された名曲が多いということなんでしょう。

全く話は反れるのですけど、自分の好きなラフマニノフは、「パガニーニの主題による狂詩曲」
超有名ドラマの「ロングバケーション」の最終話のコンテストの場面で、キムタクさんのライバルだった涼子役の松たか子さんが弾きましたね(確かかどうか記憶があやふやですがね)。
この演奏は、酷かったので、ドラマの本筋と違うところで怒りました。

個人的には、同じラフマニノフをするなら、「パガニーニの主題による狂詩曲」で、真央さんは演じて欲しかったなあ。
劇的さと言えば、絶対に鐘よりもあると思うのだけどねえ。



名曲探偵アマデウス フランク「バイオリン・ソナタ イ長調」について
 今回取りあげたのは、フランク「バイオリン・ソナタ イ長調」。

いきなり記憶喪失の男の登場です。
天出探偵は、警察に行くように薦める。

頭の中で、音が鳴っているんだって。
それがフランク「バイオリン・ソナタ」

唐突な展開ですね。

わたしは誰、ここはどこの、ファンタジックな……な事件になりそうです。

フランクの晩年の曲です。
ヴァイオリニストの千住さんも、バイオリニストになる契機になった曲

第一楽章
なんだか不思議な出だし。とカノンさん。
波に揺れているみたい。
意識と無意識を漂うような曲
記憶を無くした人に現状況を示しているかのよう
調があいまいなのが、原因らしい。

なるほどなるほど。

属九の和音。不協和音が原因。
安定したもののない、宙づりのよう。
主和音が出てくるのは、一瞬だけ、後は転調。
主和音がほとんど現れないのが、不思議な感じを出す原因なのだそうだ。

誰かが、襲いかかってくる。
やっぱり警察へ

第二楽章
凄く激しい。緊迫している
苦しみのような旋律
半音階がそれを生み出している。
半音階には、どういう効果があるのか。
細かくうねるような形。より不安な形。
目的地になかなかたどり着けない、不安を現している。
重要なところは、一泊めがない。
バイオリンとピアノが激しく絡む
深い心の奥底を積極的に出している。
半音階、シンコペーションのリズム。
聴く者の心をかき乱す。

大きな試練。
あるメロディに男は気づく。
ロープで繋がれていた。
渾身の力で突きだした。
ダメだ思い出せない。
あなたの記憶のトリガーになっています。と天出探偵

これが循環形式というものなのです。
第二楽章でも第一楽章のフレーズが形を変えて現れてくる。
変形されて使われる。巧妙な変形
それは、第三楽章でも使われる。
もっと夢心地に第二楽章では使われ
第四楽章では、はねる形で、

フランクは、循環形式でどのような効果を狙ったのか
全体が緊密になる、
曲全体が有機的になり、統一感を生み出す。

第三楽章
先ほどの激しさとは違う。とカノンさん
あの旋律も出てくると、男は言う
あいつは俺の仲間。
協力して何かをしようとしている
レチターティボファンタージア。と天出探偵
語りを楽器で表現しようとした。
演奏者が自由に表現することを、フランクは求めた。

フランクは会話を強調するため、フェルマータを使った。
自然な間を、演奏者が使うことを求めた。
心の中の会話ができないと、この曲の面白さはない。
相手の感情を重要視しながら、合わせていく。
演奏者のあうんの呼吸が求められる。
自由なテンポで歌う。バイオリンとピアノ

男は思いだした。
登山家だったのだ。
二人でいくつかの山を登った。
何かがあった。

あああっと男
俺たちはK2に挑んでいた。突然の風。
宙づりのザイル。
友人は、谷底へ。
自分でザイルを切ったのだ、男を助けるために

第三楽章後半
曲の雰囲気は一転する
アリアになった。
深い感情を切々と訴えかけてくる。
様々な事件の後のなだらかな気持ち。

人間というのは、心の弱いところもある
音楽は教えてくれる。

音楽の中から正直な素直な自分に戻れる

それからあなたはどうしたんですか。天出探偵。
頂上にたどり着いた。

第四楽章
なんてきれいな旋律 とカノンさん。
この楽章の特徴はカノン
ピアノとバイオリンが追いかけあい同じ旋律を奏でる

ここでフランクの生涯を回想。
オペラで失敗。協会のオルガン弾きになった。
自分だけの音楽にひたすら向き合った。
それが花開いたのは、60になってから

高らかに旋律が奏でられても、どこかせつない。

このバイオリンソナタに、フランクの心の全てをつぎ込んだのだ。

ピアノとバイオリン助け合いながら、高みを目指していく。
フランクがたどり着いた喜びの光。

それは、男が頂上にたどり着いたことと同じだった。
俺たちはやったんだ。
ありがとう木下(男の友人)

男はヒマラヤで生死をさまよっていたのだ。

どうしてそうなっているのだ。とテレビを見ながら思ったけど、
この回は、曲の説明も懇切だったので良かったですね。

歴史秘話ヒストリア「俺たちは“負け組”じゃない!〜奮闘!坂本龍馬と亀山社中〜」について
 この坂本竜馬を扱った回も面白かったですね。

それほど竜馬が出なかったのが良かったです
長崎での亀山社中の若者の話でした、目立ちたがりで新しもの好き、そして世を外れてしまった感のある人の活躍の話でした。
遊んでるかのようなんですが、肝心な操船技術には長けていき、長州征伐での幕府との戦い方では、見事な勝利をもたらす。
かっこいい人たちでした。

竜馬を総花的に描くより、ポイントを絞って描いた方が面白いですね。

歴史秘話になって、俄然レベルが上がりました。
自分の楽しみな番組になってしまいました。
大河ドラマがあれなので、がっかりしているかわりにもなりました。

残念なのは、夏休みは放送休みの回が多そうだということでしょうか
「天地人」のコメントについて、そして、自分は立派な人間じゃないんです。ミーハー野郎です。
 
「天地人」の視聴をこれからもしていくべきか、という記事を書いたら、止めて過去の大河ドラマを見た方が良いという意見を頂いた。

確かにそうなんですど、大河ドラマの歴史というのは、その時々で、時代考証がいい加減だ、役者が拙い、くだらないいうものなんですね。
いつも批判ばかりされてきた。

現在では、名作だと言われる「独眼竜政宗」とかも、当時はなんじゃこれは、泣き喚く政宗っってなんやねん。戦国時代をホームドラマにしている。
とかとか、一部では不評でした。
戦国の世をしたたかに生き抜き、関ヶ原後も、徳川家の隙をたえず窺っていた政宗は、「独眼竜政宗」に描かれたよりも、もっとシビアな人物だったと思われます。
史実にない、何かを加えたドラマだったとは言えます。
自分は、そういう歴史好き堅物の意見を端で聞き、当時は面白かったからいいじゃんで済ませてしまいました。

「天地人」にしてもその他のものにしても、最近の戦国時代を描いた大河ドラマは、人物を一面的に描いているとは、言えるでしょう。

「黄金の日々」では、昔は共に戦い助け合った秀吉が、権力を握るにつれて変貌していく姿を描いていました。その変貌が見事でした。

十年くらい前の「秀吉」では、同じ人物が、そのまま年を取っただけというように描いていました。
この人は、こういう人なんだというイメージに、ぶれがないようにしているみたいです。
最近の大河ドラマの登場人物は、それぞれの地方においては、町おこしにも利用できることもあり、マイナス面は描きにくいみたいです。

「篤姫」では、日本を救った少女とか、最初に言ってしまいました。確かに大奥は救ったでしょうけど、日本なんていう、大きなものを本当に救ったのかなあ。疑問だなあ
大風呂敷を広げすぎですね。

「義経」では、マイナス面を描かないようにして為、なんで義経が追い込まれていったのか、不明でしたねえ

「武蔵」は、武蔵のセリフのトーンがおかしくて、全然強そうに思えなかった。

文句を言い出したら止まりませんねえ。
いちゃもんをつけるのも、楽しみだと言えば楽しみで、くだないから見ない、とはならないのは面白いところ。

いちゃもんついでに、来年の大河ドラマの「竜馬伝」について言えば、三菱財閥の祖の岩崎弥太郎の視点で話を進めていくらしいが、竜馬と岩崎には、つながりがあったのか。
明治の政商そのものであった岩崎を大河ドラマに出すより、渋沢栄一の方が遙かに大河ドラマ向きじゃないのか。

再来年の大河ドラマでは、「江」つまり、淀君の妹で、徳川二代将軍の秀忠の妻の話をするらしいのだが、それならば淀君の方が遙かに大物なんじゃないかしら。
過去に宿敵の春日局を大河ドラマ化しているけど、どういう風に春日局を描くのだ。

なんだかんだ、いって興味は尽きませんねえ。
「天地人」については、視聴は検討中ですが、見ていく方向性ではあります。

個人的には、過去に大河ドラマ化した「天と地と」を再びやって欲しかったです。
最後に愛する女性の為に、川中島へ出征する上杉謙信の姿は、とてもロマンティックです。
義の為とかいうより、愛する者の為に戦ってこそ、ヒーローなんじゃないかしら。
正義と微笑
パンドラの匣    太宰治    新潮文庫 


この本に所収されている、もう一編の話を読んでみた。

この本は、ある少年が、自立していくまでの己の道を探していく話でありますし、兄弟姉との繋がりも描く家族小説でもありますね。

十代後半というのは、誰も奇妙な考えに取り憑かれ、風変わりだとも言えるんですね。
主人公の進くんは、その中でも飛びきりおかしいですね。
つっぱり少年の内面というのは、今も昔もこのようなものなんですかねえ。
不良少年には、特に薦めてみたい本ですけど、圧倒的に女性受けしそうな話でもありますね。
その勘違いぶりの可愛さは、堪らなく素敵。と女性たちの心の深くに届いていきそうです。
男の末席にいる自分などは、おいおいそれは、ちょっと違うんですよ、あなた。
と言いたいのだけど、作者は、そういう構造を分かってやっているのね。戦前、戦中も、今と同じような青少年が、そこにいたとも言え、昔の若者にも血の通った、繋がりを持てそうに感じます。

俳優を目指す進くんのストーリーよりも、面白言葉満載の話ですね。
全部抜き出したいくらい、破壊的言葉に満ち溢れています。溢れすぎだぁ。


・ 十六から二十までの間に人格は決定される

今が大事な時なのだ。立志の時であります。


 快晴。朝、姉さんに、坐ってちゃんとお辞儀をして、さっさと登校。お辞儀をしたら姉さんは、進ちゃん! と言って。すすむ、とお母さんが奥で呼んでいたようだったが、僕は、靴の紐も結ばずに玄関から飛び出した。

結婚するお姉さんとの別れの場面。
涙腺が緩みました。


・ きょうから漱石の「明暗」を読みはじめている。暗い、暗い小説だ。この暗さは、東京で生まれ東京で育った者だけ、わかるのだ。そうにもならぬ地獄だ。!

東京人しか分からないのかどうか、試しに「明暗」読んでみようかな。


・ 恥よ! 芹川進。お前の日記は、ちかごろ、だらしなさが過ぎるぞ。知識人らしい面影が、どこにもないじゃないか。しっかりしなければならない。お前の大望を忘れたか。お前は、すでに17歳だ。

恥じる必要はないよ進くん。と本に向かって呼びかけてみた。


劇団の試験で、

・ 「役者の、使命は、何か!」

と問われ、進くんの答は、秀逸ですね。
臥せておこう。
そしてファウストの一節の朗読を言い渡されるのだけど、そこのところは、

 ひゅうひゅうだの、ぎゅうぎゅうだの不愉快な擬音ばかり多くて、いかにも悪魔の歌らしく、不健康な、いやらしい感じで、とても朗読する気が起こらなかった。落第したっていいんだ。「ほかの所を読みます」

だって。そして他のところを読みます。
度胸があるのか、バカなのか分からないひとですが、進くんは大望を持って自立を目指しているから、これでいいのでしょう。

・ 七色の虹の
常なき姿が、まあ、美しく空に横たわっていること。
はっきりしているかと思えば、すぐ又空に散って、
匂いある涼しい戦をあたりに漲らせている。
此の虹が、人間の努力の影だ。
あれを見て考えたら、前よりは好くわかるだろう。
人生とは、彩られた影の上にある


進くんの心中を写しているかのよう。
彩られた影の上。だって何か知らないけど奥深い言葉だ。


・ 「大事なのは、才能ではなくて、やはり人格だ。」

と劇団の人に言われるのだが、


・ 僕には才能があったのだ。人格は無いけれども、才能はありそうだ。

と喜ぶ。そこでどうして喜べるのか。そこが可愛いし、青少年なんだから、としか言えそうにないのですね。
兄は、そういう弟を見て理解を示し、合格するだろうと言う。
その辺の呼吸に、仲の良い兄弟の姿を見、本の背表紙をすりすりしたくなった。


・ 今夜は、兄さんと、とてもつまらない議論をした。たべものの中で、何が一番おいしいのか、という議論である。いろいろ互いに食通振りを披露したが、結局、パイナップルの缶詰の汁にまさるものはないという事になった。桃の缶詰の汁もおいしいけど、やはり、パイナップルの汁のような爽快さが無い。

だって、どこが食通なんだ。
この兄弟は仲がいいですねえ


・ 幸福の便りといものは、待っている時には、決して来ないものだ。決して来ない。友人を待っていて、ああ、その足音は?なんて胸をおどらせる時には、決してその人の足音ではない。そうして、その人は、不意に来る。足音も何もあったものではない。全然あてにしていないその空白をねらって、不意に来る。不思議なものだ。