影法師

自分が読んだ本の感想を書くブログです。
優しいコメントは大歓迎です。
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古都
古都    坂口安吾      1941年作


この小説は、
ある時京都に住みたくなった作者が、東京を引き揚げてて、京都に実際に住むという話で、住んだところが、伏見稲荷の近くで物価も安かったのだが、宿の主人も変わり者だし、そこに集まってくる者も、社会の掃き溜めみたいな人物ばかりだった。

この小説も奇人変人録で、どうしようもない人たちが登場し、そう言う人たちでもなんとかやっていけるということ。
これはなにかしら人に安心感を与えるわね。

作者が、東京で女と別れる時の言葉が秀逸

・ 君も、どこか、知らない土地へ旅行したまえ。たったひとりで、出かけるのだ。そうすれば、みんな。変る。人はみんな、自分といっしょに、自分の不幸まで部屋の中へ閉じこめておくのだ。僕なんかが君にとって何でもなくなる日があるはずだというのに、その日をつくるために努力しないとすれば、君の生き方も悪いのだ。ほんとうの幸福というものは、この世にないかもしれないが、多少の幸福はきっとある。しかし、今、ここにはないのだ。プラットフォームで、出発を見送るなんて、やりきれないことじゃないか。

エジソン家
エジソンの生涯   マシュウ・ジェセフソン   矢野 徹 (翻訳), 白石 佑光 (翻訳), 須山 静夫 (翻訳)


カーリングの世界選手権の決勝のカナダ対中国の試合を見ていて、またまた興奮して寝付けなくなってしまったので、仕方ないのでまた記事をアップします。
カナダチーム優勝おめでとう。ジェニファーさん格好良かったですよ。
そして日本チームもよく頑張った。

全く関係ないことを前置きで書いてしまいましたが、エジソン伝ですね。
このエジソンについて書かれた最も定評のある自伝について、読んでいきたいと思いますわね。星新一の本で言及されており、前から興味があったんだ。
子供向けの本ではないので、エジソンのダークな側面が見られそうであり、楽しみですね。

第一章は、エジソンの一族について書かれていたね。
トマス・A・エジソンは、オハイオ州ミラン村に生まれた。
この町は、開拓によりどんどん人口が増加していった。
父親は楽天主義者で、ここで事業を開始した。
彼の一族は、

・ かれらはオランダ人とイギリス人の血が混じった、勇敢で活動的な一族であった。家族の者がみな、慎重に事を運ぶというより、当たって砕けろという傾向が強かった。

・ エジソン家の人々は、質朴で頑丈な開拓者であり、一生のあいだ森や野で働いた。かれらの大部分は、ほとんど教育がなかった。

・ この一家には、著しい一つの特徴があった。かれらは強固な個人主義者で、容易にひとの言葉を聞き入れないし、頑固といってもいいほど独立心が強かった。

母親は、オランダ系のエジソン家と違っていた。

・ 体は小柄であっったが、若いときから、逆境に負けない忍耐力と精神力をあらわした。非常に知的であり、生家のエリオット家から深い信仰心と学問に対する愛とを吸収していた。
イタリアだより
モーツァルトの手紙    柴田治三郎編訳     岩波文庫


モーツァルトの手紙というのが大変面白い、とんでもない事が書かれているとのことで、興味が前々からあったので、少しずつ探ってみようかな
と思い至って実際読んでみた。
この本は年代順に並べられているので、ます最初の「イタリアだより」から

モーツァルトの最初のイタリア旅行は十四歳になっていない頃で、この旅行は大成功だったらしい。

この本が面白いのは、編者の柴田先生が、手紙の後にコメント書いているところだね。
モーツァルトが粋がって、ちょっと署名を変えて書いているのを

・ モーツァルトが自分の精神的能力によって貴族の列に入ることを予感をもって先取りしたものだと、うがった解釈する人もいるが、これは学校劇のポスターなどに見られるいたずら半分の書き方をまねただけのことであろう。

自分もその通りだと思う。

バカな手紙でのやり取りの一方。柴田先生は、モーツァルトが礼拝堂での門外不出の秘曲を一度聴いただけでモーツァルトが正確に書き取ったことを指摘。
バカと天才が同居しているわね

・  ぼくは(届けてもらうことになっているママと姉さんの)肖像画を楽しみにしています。姉さんが姉さんにそっくりかどうか、早く見たいものです。

昔の人は、肖像画が似ているかどうかを見るのが楽しみなんだ。
そう言えばそうだよね。温かい家族の繋がりを思わせて良いよね。


・ あまり悲しんではいけないでしょう。神さまの思い召しがいつもいちばんいいのですから。この世にいるのがいいのか、あの世にいるのがいいのかは、神さまの方がきっとよくご存知でしょう。


昔の通信手段は手紙だけで、この唯一の手段を使って、家族へ温かい手紙を書き続けるモーツァルトは実に良い人だ。
イタリアでは成功していたのも良かったわね。
所有せざる人々  その4
この章は、アナレスが舞台。
ウラスと違って不毛の土地に入植してきた人々のことが語られていた。

・ アベネイに毒はなかった。明るい、むき出しの都会。ここでは色彩は淡く鮮やかで、空気は清浄である。喧噪もない。町はすみずみまでも一目瞭然。まるでこぼれた塩
のように明快にレイアウトされている。

共産主義国家の町並みみたいですね
シェヴェックは、ウラスの本を使って勉強の日々。
シェヴェックの論文がウラスでも刊行されることになった。
ここでは幼い時に別れた母親と再会する。

・ シェヴェックは彼女の孤独を見た。彼女の苦悩を見て憤りを感じた。それは彼を脅かした。彼の父親の誠実さ、彼の生活が根ざしていたあの純粋でゆるぎない愛をゆさぶった。困っているパラットを見捨てた彼女が、いったいなんお権利があって、己れがつらい時にパロットの息子に会いにくる? 彼は与えるべきものも持ち合わせていないのだ。彼女に対しも、また誰に対しても。
勉強記
勉強記      坂口安吾     1939年作


この小説は受験勉強をする話ではなくて、ノイローゼを癒す為に勉強をするという話なのかな
まず言えることは、学生は勉強するべきものという世間一般の認識に対して、昔も今も学生は、特に大学生は勉強はしないことに対する、自戒の意味とその風潮を嘲笑った小説であるとも言えるわね。
この小説の主人公の栗栖按吉は、涅槃大学印度哲学科という誰でも入れる、主に坊主の子供が入る大学に入学する。

・ 坊主の子供が大学にはいる。一番先に何をする。一番先に毛を延ばすのだ。必要以上にポマードをたっぷりつけて、ああ畜生めなんだって帽子などという意味のはっきりしないものがあるのだと考えるのだ。

というようなところに

・ 突然栗栖按吉がクリクリ坊主になって登校したのである。これはもう革命を愛する精神だ。十二人の同級生は悲憤の涙を流したのだった。

バカですね。アッハッハハ。
現代にも通じる不良小説、不良マンガに通じるセンスだ。「魁 クロマティ高校」のセンスに通じるものがあるわね。

その後按吉は、梵語、巴利語、チベット語などを学んでいくうちの、この世ならざる変人たちに遭遇する。
変人との遭遇。
ある意味大変SF的世界とも言えるわね。
やっぱりバカバカしいけどね。


・ たとえ堂々と女とねてもけっして坊主は明朗にならない。按吉は思った。なにか割りきれない不思議な毒気は、たんに女とねるねないの問題ではない。もっとも、根本的なものがある。坊主たちは、女を性欲の対象としか考えない。彼らが女から身をまもるのは、ただ性欲からまもるだけの話である。
しかし、俗人は女に惚れる。命をかけて、女にい惚れる。どんな愚かなこともやり、名誉をすて、義理もすて、迷いに迷う。そのような激しい対象としての女性は、高僧の女性の中にはいないのである。按吉は痛感した。どちらが正しいか、それはすでに問題外だ。迷う心のあるうちは、迷いぬくいりしかたがないと痛感した。

最後に何やら按吉さん思い至ったたようだが、それは女のことなんだね。

[江戸の母君」を見て
今回は薩摩から江戸へ向かい、江戸の薩摩藩邸の斉彬の妻君つまり篤姫の母君になるお方と対面を果たしたことが内容だった。

途中寄った薩摩藩の京屋敷で、江戸から届いた反物を見て喜ぶ篤姫さまに、
「馬子にも衣装でございます。」
なんて嫌みとか愛嬌とか分からない言葉の応酬をしている一方、幾島さんは、京の老女から、篤姫さまが必ずしも御台所に迎えられる訳ではないと告げられる。
道中、富士山の偉容に感激し、挨拶する篤姫さま。

そうこうするうちに江戸の藩邸に着くと、その雰囲気は篤姫さまに対しては、そこはかとなく冷たいものであった。即そのことを感知する幾島さん。対して篤姫さまは、美味しそうなお菓子などを出されて、そのことで感激。
篤姫さまの良いところは、その性が善性であるところ、つまり、まず最初においては、人のことを好意的に捉えることができるところと、鈍感なところ。
ここが、生家が家庭的であったという大きな取り柄とも言える。
この人は、人が良いことと、度胸で、これからもどんどん人の悪意を乗り越えていくのだから、やっぱりただ者ではないわね。
対して、参謀の幾島さんは、江戸藩邸の母君さまの不審な動きに対して、早速わたしめが事の真相を探ると申し出る。
あんたは、なんて頼もしいのだ幾島さん
二人とも頑張れ

諸々のことをそこはかとなく、カーリングのことなども少し
ping通信を切ったことにより、このブログのアクセス数ががたっと落ちたね。
現在アクセスしているのは、本人の分ばかりみたい。
これで限りなく日記に近くなったみたい。

ちょっと寂しい気もするけど、気が楽にもなったかも
これから気楽に、書評以外のことも更新していこうかな

自分は書評に時間をかけないので、誤字脱字が頻発してしまうんですわ。
もっとしっかり見直しするべきだし、文章の繋がりをしっかりしなくてはと思っているのですが、時間をかけると飽きてしまうので、こんなものでいいかと思ったりして。

最近ライトノベルを余り読んでいないが、ライトノベルについての感想を書くというのは、実に難しいよね。
究極、面白かったか、その物語が自分が好きかどうかしか、言いようがないし。
粗筋とか、人物の性格などを書きすぎると、作家が折角書いたもののネタばれをしているみたいで悪いみたいだしね。

自分なんかは、先が読めるかどうかでと、人物の性格づけが巧みかどうかで、良い小説かどうかを判断するけど、良い小説だからと言って、面白いとは限らないのが面白いところだね。
アホなもんの方が、面白いものが多かったり。

このブログは、だんだん普通小説の比率が高くなっていくと思いますね
いろいろ読んでいくのが自分の信条なんですが、本人の読書力に問題があって、そんなに沢山読めないのですよ。
すぐ飽きちゃって、それに本を読むも好きですが、スポーツ観戦するのも好きなんです。
最近ではカーリング。
さっきまでしていた世界選手権準決勝の日本たいカナダの試合も、海外の放送で見てしまった。
面白かったし、痺れた。残念日本。
という興奮が続いていて寝付けなくなって、仕方なくこの記事書いているのですよ。

このような軽薄人間が書いているブログなんで、大したことはこれからも書かれないと思いますわね
所有せざる人々 その3
ここでの話はウラスに話が戻って、シェヴェックは朝起きる滞在している場所を探索し、アナレスとは違ったウラスの美しい風景に感動した。部屋の戻るとウラスの高名な科学者たちの訪問を受け、楽しい科学談義をする時間を過ごせた。
ウラスでは女性が科学を研究するものでないことを知りシェヴェックは驚いた。
その後日、新聞でシェヴェックは言ってもいないコメントが載っているのを知った。
そしていろいろなところにシェヴェックは訪問した。そしてシェヴェックはウラスを愛するようになった。

ウラスに馴染んできたシェヴェックさん。
当初どうなることかと思いましたが、これで良かった良かったとは行かないのでしょうね。
ここで終われば美しい話なんですけど
村のひと騒ぎ
村のひと騒ぎ     坂口安吾     1932年作


この小説は、寒原家と寒川家というその集落きっての二つの名家で、けちんぼうの寒原家の隠居が亡くなり葬儀の日が、太っ腹の寒川家で婚姻のある日に重なったことによる騒動を描いたもので、兎に角、この集落の人たちノリがよい、なんとしてもご馳走にありつきたいと行動する、本来止めるべき立場の名士である坊さんや学校の先生も率先しているのだからね。とんでもないや

飽食の現代では分かり難い話だけど、棟上げ式に誰も知らない他人がまぐれ込む話は、偶に聞くこともあるので、現代でも似た話はあるのかも(そんなものあるかいと心の声)

最終的には、亡くなったおばあさんが一日だけ生き返ったと村の医者が宣言したことで、上手く解決して村人も楽しく酒にありついた。
良かったですね。
この話を聞いた作者は、無類の幸福感につつまれ、その村に実際行ってみたら、この話が本当になったのかどうかについて悩むのだった。

くだらないですよね。
このくだらなさと愚かさが面白いのかも知れませんが

・ 感じやすい神経をもった山の狸や杜の鴉がどんなに勝手の違った思いをしたかということは、彼らが顔色を変えて巣をとびだすと突然夢中に走りはじめたことでも分かるのである。

山の狸や杜の鴉の方が、人間様より繊細な生きものなんだ。
所有せざる人々 その2
この章は、アナレスでのシェヴェックの少年期、青年期について語られていたね。
アナレスの社会は、ウラスからやって来たオドー主義者の考えに支配されていて、そのオドー主義というのはいまいち実感できないのは、時代のなせるわざなのかな
シェヴェックは、友人と異性と接触し、いろいろ語り合っている。

・  ぼく自身が考えている兄弟愛の本質についていわんとしているんだ。それはーそれは苦痛を共にすることから始まる。