赤朽葉家の伝説 桜庭一樹 東京創元社
桜庭さんの直木賞候補にもなった本を読んでみた。
読後まず思ったことは、この本では直木賞は無理だったということかな。
賞を貰うような本は、欠点が少ないものが選ばれるからね。
この物語はその点では、評者に指摘されやすいところが多々あるみたいだ。
滅法面白い本には違いないけどね。
面白ければいいじゃんと、賞を与えてくれるようなものではないからね、直木賞とかはね
自分のミステリーを評価する基準の一つに、二段組の単行本を出せるかどうかがあるんだ。
なぜなら、量を書けない作家に面白い本は余りないと個人的に思っているからだ。
この本はその基準をクリアーした。
これから桜庭さんは、自分にとってはますます目を離せない作家になったね
3部から成り立っており、それぞれの主人公は、祖母、母、娘の三代の物語であるのと同時に、日本の近現代史も絡めて話は進められいた。それは
第一部 最後の神話の時代 1953年〜1975年 赤朽葉万葉
第二部 巨と虚の時代 1979年〜1998年 赤朽葉毛毬
第三部 殺人者 2000年〜未来 赤朽葉瞳子
それぞれの時代をそれぞれの主人公共に描いていたが、第一部、第二部が時代をかなり詳しく描いていたが、第三部の現代では、瞳子の身辺の話が中心の、祖母が殺人者だったのかという謎解きの話だった。
それぞれが、違うニュアンスをもっているので、それぞれ分けて感想を書いていってみようかな。
まず第一部から、
ここは、山の民に捨てられて、若い夫婦者に育てられた万葉は、赤朽葉家というその地方の旧家から求められ、嫁としてその家に入る。
ここでは千里眼である万葉が、戦後花形職業だった職工との交流。万葉をいじめていた黒菱みどりとの逸話。とかが語られていた。
その時代性について多く語られていたね。
当時、花形だったその職業の盛衰を描くことで、日本の近現代史の明暗を描いていた。
この辺の力技は見事だったね。
抜き出してみると
・母親は忙しさのあまり子供たちにかまわなかったが、ときおり万葉の横に通り過ぎるとき、割烹着のポケットに手を入れて、煎り豆を一粒、口に入れてくれた。ぽりぽりと噛んでいると、「おいしい?」と微笑む。万葉はうなずく。
さりげないけど、この感じ良いよね
幸福とは、こういうものなんだろう
・働くのも、何ごとかを為すのも男たちちの役割、責任で、わしら女は、影の、また影。そんなふうにのんびりと日々を生きてきた。
そのように、のんびりしていかなくなっていくんだわね
どうして万葉を拾って育ててくれたのかという問いに、育ててくれた母は
・「誰かが育てな、思ったのよっ。わしらがいちばん若かったし。男はよぅく働くのがいちばんじゃし、女はよぅく生んで育てるもんでしょう。わしらはそう信じて生きちょったし、そしたら、人が産んだ子でも、関係あるまいね!」
良い時代だったんだね
・男らしい男の時代が、輝く過去を惜しむように振り返り、振り返りしつつ、それでもゆっくりと紅緑村から去ろうとしていた。
良き時代が去っていってしまうんだわ
・この国で働く男に必要なのは、フットワーク、スキル、ライセンスの三つであると説いた。
今もそうなんだけど、空しい感じはするわね。
第一部は、去りゆき時代と万葉の子供たちの誕生の物語だったんだけど、
第二部は、万葉の娘の毛鞠の話で、はちゃめちゃなんだわ。面白いんだけど、その時代を生きた自分としては、本当にそうだったのかなとも思ったりもした。
散漫であるとも言えるかも。
東野圭吾さんの「白夜行」とちょっと似たような描き方だったように感じたわね。
「白夜行」の統一性のある描き方と比べて、こちらはかなりマンガチックに描かれていたし、出てくる人物もぶっ飛んでいたわね
ここでも抜き出してみるといくと
・「いまが、楽しければ、明日死んだって、わたし、かまやしないよ。だって、青春なんだもん」
あんたは孔子さんか、チョーコさん
・「恋をすると、未来を持たなくなるね。時間が止まればいいのに」
・不良文化は、若者たちの共同の幻想であった。そこには漠然とした天下統一や喧嘩上等の思想があったが、なんのために戦うのか、走るのか、中心部は空洞であった。そしてだからこそ、若者は燃えたのだ。なにもなかったからこその熱狂でった。
自分もその通りだと思うわね。
しかし、現実に毛鞠ちゃんみたいに、真面目に戦っていた人は、限りなく少なかったような気がする。
「いじめられるほうにも、原因があるって」
という先生の言葉を聞き、猛女である毛鞠さんは、弟を抱きしめ
・「そんなこと、あるもんか。それは大人のいいわけだ。そんなことを言うセンコーは、人間の屑だぜ」
その通りだ。そんな奴は屑だ。
・「鞄、青春がいつ終わるのか、わたしわかったヨ」
「いつなのよ」
「………取り返しのつかない別れがあったときさ」
詩人だなあ。毛鞠さん
第二部は、その時代を描いてはいたが、毛鞠という女の闘争記でもあったし、腹違いの妹白夜との愛憎。かけがえない友だったチョーコとの別れとかを描いていたね。
80年代はそういった感じだったのかな。この通りだと、変な時代だったのかも。
そういえば「湘南爆走族」とかのファッションは、今の時代から言えばおかしいし、「湘爆」も今の若者たちからは、変な物語なのかもね
そして第三部なんだけど、ここでテンションが、ガタッと落ちてしまったみたい。
出てくる人物にインパクトはなくなったのが原因なんだろうか
万葉の孫、毛鞠の娘の瞳子は、平凡な女性だ。
そしてその平凡な女が、赤朽葉家の過去の謎に迫ると同時に、自分探しをする話なんだけど、前の話が面白すぎたので、物足りなかったわね。
最後に、その謎を解くことで、それぞれの時代がつながったということで、大団円だったのかな