自分は、最近ライトノベルから序々に距離をおこうと思っていたりするのですが、ホットな話題だったので、少し思うところもあったので少し書いてみます。
物凄いおおざっぱな議論の提示され方で、ライトノベルに文体があるのかという問いなら、あると答えて終わりそうです。
でも、問題としているところを、
自分なりに解釈して、その問題を捉え直してみると、ライトノベルも問題意識をもって書かれているかという問いになる。
その問題意識というのは、何かということなんだが、
それはその作品を書く作家の拘りとか、その作品の売りととか、そういったものなのかな。
作家自身の事前のリサーチとか、その作家の書きたいものというものだろうかな。
そういうものを強く意識して、綿密にリサーチをする人がいる。ライトノベル作家ではなく漫画家だけど、江川達也さんなんかそうだね。
“全身漫画”家 江川達也 光文社新書
とか読んでいると、そういった事情がよく分かるわね。
他、BSで毎週放映している「マンガノゲンバ」とかでも、その作家の問題意識とか、拘りとかについて、触れているね。
けっこう作家は、苦労して作品を書いているものなんだ。(当たり前か)
では、読み手である読者は、そうなのかと言えば、そういう作家の世界観に共鳴を得て、深いところで理解する人も一部はいると思うが、
大多数は面白いか、面白くないかの判断しかしないのではないのかな。
自分も、ブログで感想記事を書いたりするけど、究極的には自分がその作品を好きか嫌いかということを述べているだけだね。
それは、大多数のブログでも言えるのでは。
でも、ラノベの文体とかいう言葉で、そのラノベの背後の世界まで踏み込んで言及しようとする人がいるのもおかしくないと自分は思う。
しかし、無数ある作品に、自分が本当に共鳴し、深い理解を述べられるものは、限られてくるし、
その作品の理解もその人自身の理解であって、他人も同じように共鳴できるものなのかというのは、不明であると言えるのでは。
やはり究極的に、その作品が楽しめたかどうかしか、語ることができないのではないのかな
こういったところは、全体を語るより、個々の作品を深く語れるかなので、幅広い理解が描かれるのかも。
ただし、「マンガノゲンバ」を見て、読みたくなるようなマンガが少なく感じるのいも自分だけじゃないと思うね。
それは、その作家をよく知らないからではないのかな。と自分などは思ったりするんだよ
では、どういうことを面白く感じるものなんだろうね。
つまり、気に入った作家のものを読むと、特に面白く感じるということになるんじゃないのかね。
自分が最近読んだ「悪魔のミカタ」の中で、神さまである神柱と少女たちが、カラオケでノリノリという場面があった。
読者である自分は、その場面を突っ込みながらも面白く感じられたが、そうは感じない人もいるし、他の作家がそういう場面を書いたら、自分はダメなのかも知れない。
その作家なら許せる。
ということがあるね。この人がこういうことを書いても良いし、もっと書いて欲しいとか思うもんね。
ライトノベルとかマンガとかでは、作家はそういうどこまで書いても読者は許してくれるのかを把握して書いているみたいだ。
そういう個々のケースの揺らぎが、ライトノベルを読む楽しみでもあるね。
なので、その作品を好ましく思っていない人が読めば、悪意を持って書かれることにもなるね。
でも、その人が好きか嫌いか、それをその人が許せるか許せないか、というだけの問題に過ぎないのかも知れないとも言えるわね。
そういうジャンルでもあると言えるわね
自分なりのラノベの文体の結論としては、
究極、好き嫌いでしか読めないのではないか
嫌いな話でも、良いところを見つけて読むというだけしかできないと思うね、
深い理解というより、ノリで理解とも言えるのかも