さいはての島へ ゲド戦記 3 ル=グウィン/作 清水真砂子/訳 岩波書店
ゲド戦記の映画を見てみた。
第3巻の「さいはての島」を映画化したものと思っていたが、単純に原作を映画化したものではなく、ゲド戦記全体からも脚色したものだったね。
かなり設定が変わっているし、登場人物の性格も変わっているような気がするので、この映画を評価するのは、原作の物語とは違ったものと考えてしなければならないわね。
監督が悪戦苦闘して作り上げたものとは言えるが、これで良かったのかな。
世界の危機というのが矮小化されており、アレンの心の闇の問題も解決が図れているかどうかもよく分からない。
こういうことは、原作の世界観に引きずられたのが原因なんだろう。
つまりどっちつかずになってしまったということなんだろうね。
単純な世界の危機を救う話にしていれば、こういう分かりずらさは発生しなかっただろうし、一方原作に忠実に描いたら、その種の問題も分かりやすくなったのではないのかね。
そして、この映画で一番自分が言いたいことは、主人公のアレンの立場をここまで変更してしまったらいかんだろう。ということだね。
どういう経緯で、アレンが父親の王殺しをする設定にしたのだ。
謎の影に追われたということだが、その影の問題は、ハイタカ(ゲド)いやいや全ての人が抱えている問題で、ゲド戦記全体の中でも大きなテーマになったのではないのか。
そのことをアレンの問題にしてしまったら、物語の根本が成立しにくくなるのではないのか、そしてこの映画では、ハイタカは、この映画の中では脇役になってしまい、大賢人である感じすらないのは頂けないかも。
単純に一巻の「影との戦い」を映画化した方が面白かっただろうし、ややこしい設定の変更などする必要なかったのに、なんでこういうような作り方をしたのかな。
つくづくもったいないと思うね。
この原作の「さいはての島」についても、少し書いておこうかな。
自分の感想は、はっきり言ってこの3巻の「さいはての島」は面白いとは思わないのだ。世界の危機ということなら、「ネバーエンディングストーリー」の方がすっきりしていて面白い。
しかし、魅力がないということではないところが、ややこしいわね。
アレンとハイタカの師弟の旅。
少しづつ成長していくアレンは、普通の青年だが、旅をすることにより賢く強くなっていく。そしてこの世界の王へと
この本から少し抜き出してみると
・しかし今や、アレンの奥深いところで眠っていたものが目を覚ました。されを目覚めさせたのは遊びでもなければ夢でもなかった。それは人に対する敬意であり、迫りくる危険であり、そして知恵であった。傷あとの残る顔と、静かな声と、無造作に杖を握る黒い手であった。
・よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られた時には。まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからも自由になりえないし、その行為の結果からも自由になりえないものだ。
・心配するな。人間にとっては、何かをすることのほうが何もしないでいることことより、ぞっと容易なんだ。わしらはいいことも悪いこともし続けるだろう。………
どう生きていくかということを考えさせる本であるのは確か。