自分は、年を取るにつけて、新しいものを読むより、過去に読んで感銘を受けたものを読む方が多くなっていまして、どんどん爺臭くなっております
鷹ひとつ見付けてうれしいらご崎
芭蕉の句でありまして、自分の最も好きな句なんですが、どうしてこれが好きなのかを考えていることが楽しかったりします。文学部出身でもありませんし、世界史選択なので、学識が全くないので、解釈がおかしいと思うのですが、そこは勘弁してもらって、つらつら書いていきます。
手元にある新潮社古典集成の訳では
音に聞く名所に来て、荒涼たる自然の中に、はしなくも一羽の鷹の飛ぶ雄姿を見つけたうれしさよ
そして、鑑賞のところでは
その荒涼たる自然を背景にして、猛々しい鷹の鋭く鳴く声を、いかにも所柄に適っていると嘆賞した。裏に、杜国に会い得た喜びの心を寓する。
とあります
これでは、さっぱり分からないので、一般向けの本
嵐山光三郎先生の「芭蕉紀行」(新潮社)を紐解いてみます。
ほとんど、こちらがタネ本なんですけど、
そこで、この句が書いているところでは、この杜国ちう人は、空米売買の罪で謹慎中でして、伊良湖岬にいました
伊良湖と言えば、椰子の実の歌で有名ですね。半島が突き出ているところです
芭蕉は、わざわざ謹慎中の友を訪ねていった訳です
ここには、もう一人越人という付き添いの人もいたようです
封建制の江戸時代、罪を問われている人を訪ねるというのは、ありえないことであったようです
富商であった杜国は侘び住まい。
その侘び住まいをしていたところを、「芭蕉物語」(麻生磯次)という本では、忠実な家僕の権七がいることに芭蕉は、感銘を受けたようで、
貴賎貧富によって、その人を判断すべきではなく、身分の低い人の中にもりっぱな心掛けのものはいるものだといって、下僕権七の篤実な人柄を賞揚した
杜国は、芭蕉を太平洋に突き出た伊良湖岬に案内する
芭蕉物語の評釈では
芭蕉は越人と並んで、広々とした果てしのない海を眺めていた。ふと見ると、はるか沖の空からだんだん近づいて来る黒い一点がある。鷹が大空を我が物顔に、悠々と飛翔して来るのである。鷹の名所といわれる伊良湖岬で、待ち望んでいたその姿を見た芭蕉は、言い知れぬ嬉しさで胸がいっぱいになった。その鷹はこの半島に隠れ住む俊敏な杜国に比せられるべきものなのである
とあります。
「芭蕉」(山本健吉)この本は、最近復刊したようですが、自分が持っているのは新潮文庫
そこでの解釈が、すこぶる面白い
この本は、鋭い解釈で、底の底を見つめるような本で、学界の解釈の対立点も述べておりまして、どうしてそんな変な解釈になるのかというのも、淡々を列記して、さりげなく冷たく通り過ぎます
そこは、面白いのですが、誰に発信しているのかは謎です
この句の解釈のところも鋭くて、自分のようなものには、それがどうなっているを伝えるのは無理なので、原本を読んで欲しいです
この句の反対解釈として、この本でも、度々登場するブッ飛んだ解約なかりして、痛そうな教授の解釈では、
鷹が、空を翔るのではなく、下の岬の岩かどこかに翼を休めている鷹と感じ取る
山本先生は、直感的に、天翔けつけている一羽の鷹を描き出して、何の疑問も持たないと、きっぱりと述べています。
自分なども、どうして、下の岩に羽を休めている鷹になるのか、分からないのですが、この教授は、度々面白解釈をしてくれて、楽しい
山本先生は、鷹が鳴く声も聞いたと推測し、
夢に見ていた杜国に再会することができて、その現実の声を聞きえた喜びを「たのもしき」と言ったと考えております。
夢に声を聞いたというのは、愛情の声の切実さ、なまなましさを物語るとも言っておられます
更に、「鷹一つ」とは、杜国の姿を象徴するもので、姿も立派で、心情も美しく高貴なもの、主観的には、「罪なくして配所の月を見る」という運命を甘受しなければならなかった姿としてます。
「うれし」とは、悲しみのこもった「うれし」である。
ということだそうです
自分は、侘び住まいをする杜国をわざわざ訪ねていった芭蕉。江戸時代なんだから、おそらく二度と会えないかも知れないであろう友と共通する時間を持ち会えた喜びが、うれしで、空に舞う鷹を一人で見るよりも、友と見ること、恵まれない、よく似た境遇の友と見ることで、孤独の質が深まる。
少なくとも、一人で見るよりも、重層的な意味を持つと考えいます。
実に深い味わいを持っていると考えて、自分は、この句が好きです