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網走番外地というのは、以前より気になっていた映画なんですが、わざわざレンタルしてまで見るのも躊躇われるので、ずっと未見でした
NHKでは、放送されないような内容のものなので、なかなか見る機会はありませんでした
BSなんとかで、放送していたのも、ニッチを狙ってのことなんでしょうけど、どの層向けに発信しているのかは、分かりずらいものです
やっぱり健さん人気を当て込んでなんでしょうか、
ですが、ここでの健さんは、少しお馬鹿な青年で、不幸な生い立ちもあるのですが、家族思いであり、やくざになっても、道を決定的に踏み外していないし、仲間内で、ええ格好しいと見られるのも良しとしてない、骨のある、所謂、見所の多い青年です
高度成長には、こういう見所多き青年が、日本には、多くいたのだろうと想像できるのですが、それは、そういう時代だったと言ってしまえば済む話なのかも
この映画は、日本映画がまだ十分力のあった時代に作られたものだと思えるのは、囚人が逃走した時の探索をするために、黒板に地図と状況を図解したものが描かれてましたけど、そういうところに手抜きはなく、力に入った絵が描かれてました。
低予算映画だって、手抜きはしない。少し前の日本人の気概が、そういうところに出ていたと思いました。
この映画の続きも気になるところですが、別に見なくても良いような気もします。
それにしても、健さんは、魅力的な男性です
自分は、過去にこの映画を観て感心したことがあり、ETなどよりも、ずっと良い映画だと思っているのですが、どうなんでしょうねえ
「ピノキオ」を下敷きにしていて、人間の子供そっくりに作られたロボットが、母を慕い続け、探し続ける物語ですね
随分悲しい話で、陽気で、心温まる話を求める人たちには、余り歓迎されない話と言えそうです
ロボットにも知性があり、自分が自分であると認識する能力があるのだと、証明するのが、その題名になっているだと言えるのですが、その行為が、やはり少しずれている。オーバーアクションというか、人間ならそこまでしまいだろうと思ってしまうところが、考えさせられます
つまり、生の人間、特に子供は、意地悪く、残酷で、移り気で訳です。
ロボットのマイケルは、あくまで善良で、優しいのですが、その悪意に追い詰めれていくのですね
そこが悲しくて、あくまで偽者でしかないマイケルは居場所すら失ってしまうことになります
もちろん、母親からも引き離されます。
この母は、最初は、マイケルを嫌っていても、最終的には、マイケルの悲しい心中も理解できた上で、捨ててしまいます。
簡単にポイ捨てではないところが、マイケルの漂白を運命づけるのだと言えそうです
心は、繋がってままにしておいた訳ですね
このことが、最も残酷なことと言えそうです
セックスロボットのジゴロのジョーが、マイケルを救うのですが、最後に囚われてしまったと時に、マイケルに投げかけた言葉も印象的でしたね
「I am」 「I was」 私はいる。私はいた。
英語で語っている言葉が実に哲学的です
マイケルを救うことで、この世で自分が存在したことの証拠が残ったのだと訴えているのでしょう。
この世に自分が生きた痕跡が確かにあった。それが、AIということなんでしょうか
いつも同じようなものばかり借りてしまいます。
寅さんは、やはり初期に傑作が揃っておりますね
プログラムピクチャーだった4昨までからが、本当の寅さんの自律した映画なのかも知れないと思っていますが、11作目になると、本当に、寅屋の皆さんに心配ばかりかけている寅さん、女性に最後に振られてしまうという決まりきったパターンを抜け出して、もっと、深くて広い根源的なテーマを模索していると言えます
その内在する何かについては、一般の多くの大衆は、顕在化して語るというよりも、日本人の心に共鳴する何かに訴えることにより、言語化して語ったらいけないものになっているのかも知れませんね
つまり、語るが野暮だと
野暮を承知で、少し書いてみると、この作で寅さんは、最も結婚に近づいたし、相思相愛の女性にめぐり合います。この作以後も度々登場する運命の女性のリリーさんです
魂の深いところまで共鳴でき、初対面から気の合った二人は、どうして一緒に生活できないのか。
そうして一緒になったらいけないのか。
そんな深刻なテーマをさりげなく投げかけられても、大衆は、どうしてなんでしすかねえとか言えないのですが、
愛している二人の事情が、そうさせる訳ですね
寅さんも、リリーさんも、大手を振って結婚できる事情を抱えている訳ではなく、一緒になると迷惑をかけてしうまう心配が先に立つ。
二人とも、古い価値観を持った、美しい日本人でもある訳です。
身奇麗に、他人に迷惑をかけないで、こっそりと生きていく。そういう価値観を共有する人たちなんですね
清潔で品のある日本人。
映画の中だけでも、そういう日本人に接していたい。そこのところが、なんとも言えず良いのですが、寅さんは、不幸でもあると言えそうです
この作中、リリーさんは、違う男性と結婚して、寿司屋のおかみとして、店を切り回すところを、さくらさんが、目撃し、一方の寅さんは、広い北海道の牧場にやって来るところで終わります。
広い広い大地。そこにも人の営みはあり、笑いもあります
やっぱり良い映画ですねえ
様々なDVDを買って見ております
バレエって良いですよね
言葉が分からなくても、なんとなく分かりますし、演出でいろいろ変わるところも良いですね
ストーリーの良い意味でのいい加減さも、自分的にはありです。
バレエについていろいろ検索している中で、最近「白鳥の湖」を素材にした映画があるのを知った。
近所のレンタルショップに行って借りて見てみた
なんだかんだ言っても、主演のナタリー・ポートマンの熱演があってこその映画でしたね
自慰行為まで披露してます。ハリウッド女優って大変だ
まず着目するのは、そこなのか。と思うのですが、これだけどぎついのではね、仕方ないですなあ
ステージママとのやり取りも、過剰過ぎるかもしれなない演出家。育った環境が違うダンサーの同僚。この人は、実は良い人っぽいのですが、主人公の二ナは、誤解して、どんどん現実と妄想が、錯綜する世界に入っていきます
少しづつ壊れていきます。「白鳥の湖」自身が、善悪二つの側面を持つ人物。二役をこなす必要があり、真面目で品行方正なオデット役しかこなせない二ナは、ちょっといけない世界へ足を踏み出していきます。
ちょっと悪い子リリさんが、導き手になってます。こういうところは、ちょっと不良の方が、使い道がありますね
実生活もそうなのかも、不良の方が、打たれ強いですしね
この映画でがっかりしたのは、実際の舞台が、少ししょぼかったことですね
出演者は熱演しているし、お金がかかっているはずの映画ですが、舞台セットにもう少しお金をかけたらと思った、
最後に二ナが飛び降りるところの背後の太陽は、まんまですし、最初の月もまんまですやん。
大阪人は、そういうところは、受けそうですが、もっとスタイリッシュな演出をした方が良かったのはと思った
王子を誘惑するオンディーヌは、鬼のようなのも気にかかったね。王子さんが圧倒されますよね。あれじゃね
いろいろ腐してますが、個人的には、大変面白かったですね。舞台裏の話ってけっこう貴重ですしね
ポートマンさんは美しいですし、眼福です。
BSで放送していたものを録画していた映画を観てみた
こんな有名昨を自分は、まだ最後までみていなかったのだ。
公開当時は、爆発的ヒット。
誰もが、当時ET,ETと、何かを語り合ってました。
自分は、そういう流行を端で見ていて、そのうちテレビで放送されるだろうし、その時見ればよいだろうと思っていや
そして、テレビで放送していたのを、公開から2,3年後に観た時は、つまらなく感じて途中で観るのを止めてしまった
今回初めて最後まで見てみた。
いろいろ考えることはありますが、スピルバーグが意図していたこと、と反れたところにしか感心がいかなくなっているのは、世を擦れてしまったからなんでしょう
今のハリウッド映画からすれば、かなり陳腐に感じる特殊効果なんですが、それでも当時は最先端であったであろうことを思うと、技術の進歩は凄いですね
30年も経てばそうですよね
「おじゃまんが山田くん」では、30年後では宇宙で勤務してますもんね
ええっと映画は、ハートウォーミングな宇宙人との遭遇と友情の話で、大人たちから、子供のETを守り、家族の元に返してあげる話です
人類が、これから出会うかも知れない宇宙人が、そんな大甘な優しい宇宙人だったら、良いのですが、おそらく現実的には、模図先生の「十四歳」みたいに、触れ合おうとすると、がぶっとかぶりついてくるようなものの方が可能性として高いのでは
日本人は、宇宙人については、いろいろ考察してまして、ウルトラセブンのメトロン星人とかは、茶の間で、人類の盛衰を取引してました
なのに、アメリカ人は、こんな大甘な異星人で満足するのか
自分が、初めてこの映画を観た時は、こういう感想を持ち、途中で観るのを止めてしまったのを思い出した
宇宙人がどうあっても、人それぞれだし、この映画は、ETの造形よりも、家族の話、友情物語に力点があるのは、否定しようがないのですが、そういった部分は、時が経つと多少の風化があるようにも思えましたね
今のアメリカでは、これだけ白人ばかり出る映画は作れないでしょうしね
何はともあれ、自分には、この映画を語る資格はあまりないとは言えますね
テレビで、「もしドラ」の映画を放送していたのを見た。
この映画は、原作のドラマ部分を丁寧に追ってい作られていて、ドラッガーの思想部分については、最低限に触れておこうとしているかのようでした
野球部のエースに瀬戸康史さんが出てましたね
この人は、自分が毎週楽しみで見ている「グレーテルのかまど」に出てますよね。この映画では、あまりセリフがなく、少しイメージが違っていましたね
アニメ版では、ネタにして突っ込みどころが、沢山あったのですが、映画は、ドラマ的には、破綻はないようなので、すいすい進行してしまいました
なんとも言えん
1の後の作品は、蛇足だったのですね
1976年の作品なんですが、何度もテレビで放送されていまして、自分が見たのも、これで5回目か6回目、もしかしたら7回目です。
細部まで覚えていたようで、今回、ながらで見たのですが、楽しめました
1976年と言えば、猪木対アリの世紀の試合があった年なんですね
あの試合は風化してしまって、若い世代では、当時どれだけインパクトがあったかは、知りようもないのでしょうけど、この映画のインパクトは、見たら伝わるような気がします。
作品全体が、若々しい生気に満ちているんですね
それが、丁寧に30年後のロッキーを描いた6と違うところ、この若々しいイメージは、代え難いものがあるし、この作品の命でまありますね
ロッキーが、タイトルマッチを行えたのは、チャンピオンのアポロの気まぐれであり、千載一遇のチャンスであったのですが、必然のように感じられたのは、マジックですねえ
恵まれない青年は、スターローンの自画像でもあって、その姿が映画に反映していたとも言えますが、かなり無理があったのも事実ですね
この無理が通ったなら、これもできる、あれもできるとなったのが、続編群なんでしょうけど、ここで続編を作らないで、止めていたら、本当に格好が良かったのかも
商売だから、儲けなくてはいけないから、興業的に満足いくものだったらから、ということで、どんどん続けていったのでしょうけど、最低の世界観は、崩さずに作り続けていたのは、作品の持つ世界観を大切にしたかったからとも言えますね
そこは重要なところで、続編を作って無茶苦茶にしてしまった例の方が多いくらいですもんね
褒めてばかりしましたけど、年をいって自分が見てみると、やはりご都合的過ぎる展開。世界戦が決まって、安易に強くなるであろうところは、なんだかなあと思ってしまう
。
公開が2006年。最近じゃん
こんなのやっていたっけ。
と、一番最近のものの公開していたのを知らなかった
アマゾンのレビューを覗いてみると、絶賛の嵐。
こんなに、皆が褒めている映画は、久しぶりに見たような気がします。
アマゾンのレビューを見た方が参考になると思います
自分は、感じたことを書いていきますと
内容は、ロッキーの一番最初のものを、トレースしたように、老体に鞭打ち、今度も(再度ではないですよね)立ち上がる。
この立ち上がっていくまでの過程が、この映画のコアのような気がします。そこが以前のものとは、少し違います。いやいや違っていない。
ですが、以前のものと見えている光景は、大分違う。
ロッキーの最初のものが公開されたときからすると、アメリカも総体的に、人間がギクシャクしていったようで、息子は、会社でそんなにぱっとしません
これらは、多くのアメリカの若者が、日々の暮らしに追われ、せせこましくなり、上司の機嫌も伺わなくてはならない。ロッキーは一応、レストランを成功させ、日々の暮らしは困らないということになってます
日常は、持たざるもの、持てるものと一線が引かれ、社会全体が、鬱屈している雰囲気を出してます。
こういう感じは、以前のロッキーの世界とは、異質なものですね
ロッキーの世界は、周辺の人たちと、近所の皆さんの支えがあれば、ロケット噴射宜しく、なんとかなったもののゆうな気がする
アメリカ人の鬱屈した感情を代弁する存在とまでは、言えなかったような気がする
悪の帝国、ソ連の代弁者を、アメリカの力を体現して、やっつけたというのとは、異質なものだ。
対戦するチャンピオンも理性的で、己の力に自惚れていないし、ロッキーが果敢に戦うと、その姿に敬意を表するような存在です、
ドン・キングに似た、怪しげなプロモータも出てこない。
ロッキーは、何と戦っているのだ。
己の中の何らかの価値を見つめて立ち上がているのだけど、そこのところは、自分は釈然としなかったですね
見ているものに、知的な理解を強いる映画だと自分は思う。
怪しげなプロモータとか、悪徳会計士とかを出して、ロッキーを窮地に追い込んだ方が、自分的には、分かりやすいし、自分好みなんだけど、この映画はそうじゃなかったですね
本当に、これで最後なのかな
BSで放送していた、映画を見てみた
この原作のマンガは、昔読んだような気がするのですが、この映画とは、違う印象のような
それは、主演の成海瑠子さんが、美少女過ぎるからなんでしょうね。思春期特有の透明感が際立ってます
今の大河ドラマ清盛に出ている姿とは、大分違っておりますね
清盛の主演の松山ケンイチさんも、出ていまして、こちらも清盛の堂々とした感じ、一門を支えていく棟梁の姿というより、ナイーブな青年を演じておりました
松山さんは、当時から存在感はあったようですね。
出世する人は、やはり違うなあとも思った。
内容は、天才ピアニストの少女の覚醒していくドラマであり、のだめカンタービレの、シリアス版みたいです。
成海さんが、美しいので、映像に説得力があっていいのですが、天才が奏でる音楽とは、何かを映画で、表現する時の音が、それが非凡であるのが、どういったことなのかということを見せる手段が、なかなか難しく
明らかに下手な演奏を松山さんとかが、奏でなくてはならなかったし、最後にオーケストラで少女が共演した指揮者は、後半になって生き生きと演奏し、飛び散る汗とかで、その音楽が、至上のものなんだと示さなくては、見ている者には、分かりにくいものだった
一生懸命工夫して、普通違う音楽とは、何なのかを表現してました
そこは微笑ましいのですが、本当に凄い演奏とは何かという、問の答えにはなりませんね
ですが、この映画は、良いものだったと思います
この5は、当時見た印象と、今回見たのとはかなり変わりましたね
当時は、ストーリーファイトで、かっての弟子と決着をつけるところで、それは違うだろうと思ったし、多くの人もそう感じたと思った。
いろいろな意味で、ロッキーも終わりなんだなあと思ったものだ。
最後は、小さく纏めにきたのだなあと
まあ、あれだけ、おバカな話でやってきたのだから、真面目な話。人を育てる話。地味な話は、合わないと思っていた。
もちろん、ロッキーの話は、真摯な恵まれていなかった若者の成長物語であり、サクセスストーリーなんであって、ロッキー自身は、地に足をつけた生きたをしてきたとは言えますけどね
今回見てみて、作り手は、ロッキーの真摯な生き方の部分に、目を向け、家族の団結、下町の人の声援というものに重きを置いた話を作っていたのだなと思った
この映画の封切りは、1990年、日本はバブル経済真っ盛りです。当時の日本がロッキーに期待したのは、派手ね打ち合いであって、もっとおバカなストーリーだったのでしょう
自分も、バブルに浮かれていたのでしょうか
強くなる過程、ハングリーから這い上がっていく中で、人間は傲慢になり、恩知らずになってしまう。
自惚れることができないと強者にならない世界で、その制御は本当に難しい。
家族が、町の暖かい声が、自分というものを見つめ直すきっかけになるのだと、この映画は、訴えていると自分は感じた。
今回、改めてみると、この5は良い映画ですねえ