自分の今一番続刊を待ち望んでいるライトノベルは
「紅」「マリア様がみてる」「ヤングガンカルナバル」です。
「文学少女」は完結待ちですが、好きです。須賀さんの新作も早く続きが読みたい。
この「紅」と「ヤングガンカルナバル」が、もうすぐ新作が出るのは本当に首が長くなるように待っている。
自分の住んでいるところが田舎なので、発売日から二、三日くらい経たないと読めないのが悔しいですね。
本日、とあるサイトを覗いていみると、「紅」がアニメ化されているのを知った。
早速調べて一話と二話を見てみた。
このアニメは、いいのじゃないですか。
原作とは違った感じがするし、絵柄と声優さんの声が違っているような気もするけど
それを言い出したらきりがないわね。
でも紫ちゃんと夕乃さんの絵はちょっと違うとは言いたいわね。。
のっけのところの
紫ちゃんと真九郎の出会いも違和感を感じたかも。
原作通りした方が良かったわね。原作では、紫が嘘泣きして騙すようにして、真九郎の部屋に潜りこむことに成功したというように描いていたね。
紫は真九郎を最初は思いっきり侮っており、小間使い程度にしか思っていないと、もっと思わせた方が良かった。
このアニメでは、紅香にもっと認められたくて真九郎が、もっとやりがいのある仕事を求めて与えられたのが、この紫を預かるという描き方だったわね。
それに紫の出身の経緯も既に、早くもこの回で描かれ、初めから弱い存在として真九郎の下に転がり込んできたということになっていた。
原作での紫は、最初から弱い存在というより、生まれつき上に立つものとして存在する自分を自覚していたわね。
必ずしも、弱き存在としてお互い出会ったのではなかったのではないかな。
弱き心を持つが、自分を否定する存在を、うち消すような強いものになりたいという意志を持つものとし二人は出会った。
原作もアニメもどっちも出会い方は、似たもの同士としての邂逅だったのだが、そのあり方は微妙に違っているように思ったわね。
牛乳のエピソードも取り上げていたが、そこではまだ紫は、まだ二人の本当の出会いの意味は分かっていない。
そのつながりが出来ただけだ。そこで紫が理解するのは、普通の庶民の世間のあり方にしても、世間知らずのお嬢様にしては、ものわかりが良すぎかもね。
真九郎は、いつもとるに足りない存在としての自分を感じている。
真九郎のリアルな強さがあればそんなもの吹き消してしまいそうなんですが、真九郎は強さを渇望している。なので際限なく強くなる可能性を持つ。
一方、弱き心を自覚するから人に優しい心を持つ。
そこのところも描こうとしているが、何かもの足りなく感じたかも。
銀子さんをそんなに優しそうに描いてはダメだ。
夕乃さんをもっと、もったいぶったブリッコに描いて欲しい。
いろいろと見ていると要求したい気はする。
どっちにしても原作は、余りにもカリカルカチュアされ過ぎており、これをそのままアニメ化したら、よく分からないところが多々あるので、原作にエピソードをつぎ足して置かなければ、ストーリ展開が分かり難くなると感じて制作したようだ。
その努力は評価したいし、よく頑張っていると思う。
ここから脱線します。
原作のネタばれもあるので、気をつけてください。
妄想の世界でもあります。
現在の原作上の問題は、「紅」と、原作者の前作「電波的な彼女」が、いつ合体するかだね。
合体時、真九郎はどうなっているのか。
自分個人としては、悲観的な考えなんだ。
真九郎の考えは、この小説通りに読んでしまえば、死の概念に囚われているように思えてならない。
彼は幼少時、家族を虐殺された過去を持ち、自分の命というものを軽んじて生きている。
もちろん大切な存在を守ろうとする意志はあり、そのことが真九郎の生き甲斐だ。
それでも死の幻影を振りはらう程ではないのでないかという疑問は残る。
そこまで、死というものについて沈殿していく主人公というものに、作者の意図を、そこはかとなく感じてしまったりする。
もちろんこの感じ方は、自分個人のもので、そうでない方が良いのではあるけどね。
ここから更に脱線します。
トルストイの「戦争と平和」では、主人公の一人アンドレイ公爵は、優れた人物で、ロシアの将来を憂いて、ナポレオンを理想視していたが、戦場で重傷を負い、その後、ヒロインのナターシャと出会う。彼はそこに生きる希望を見出すか、以前から囚われていた死の幻影を振りはらうことはできずに、最後は絡み取られて、この世に失望して亡くなる。
アンドレイの内面は、死との対話とロシアの前途への不安ばかりだ。
ナターシャは彼をなんとか救いたかったし、主人公のもう一人ピエールは、貴族の私生児として生まれ、こちらは生の希望に満ちた考えをしており、ロシアの前途にも希望を持つ、
ピエールはなんとかアンドレイを励まして希望を語るのだが、アンドレイは、最後は死に絡めとらわれてしまう。
自分は真九郎の考えをトレースしていると、このアンドレイの考えに合わせてしまう。
もちろんそんなのは、個人の思いこみで、全く違うと言えばそれまでなんですが、
「電波的な彼女」の主人公の柔は、真九郎とは反対で、けっして強くないが、自分で価値を見つけることのできる野性の強さがあるような気がする。柔には生への意志が健全にある。真九郎にはそれは欠けているのじゃないか。
お互い、強さ弱さがあるが、その種類は違っている。
この読み方は、多分間違っているだろうけど、「紅」「電波的な彼女」の世界は、意外と深いのだとは思う。