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この小説は、安吾文学の上では重要な作品らしい。
救いがたい話とも言えますが、自業自得男の悲惨な末路とも言えるのでは、
内容は、夜盗が闊歩している平安京において、多くの者は、恐れをなして、恐々としている中でも、好き者の紫大納言は、我関せずと色の道を歩んでいた。ある時笛を拾う。その笛が天女のものであり、その侍女が強くその返還を求めたのに、大納言は5日後に返すと約束し、その侍女を留め置きさせた。
大納言は平安京で闊歩する夜盗に見つかり、身ぐるみを奪われる。あの笛も奪われてしまう。
天女の侍女は、大納言を詰る。大納言はあの笛を取り返そうとして、夜盗を探して笛の返還を求めたが、その夜盗たちに袋だたきの目にあっただけだった。瀕死の重傷を負った大納言の下に童子が現れ、そしてキノコになり、笑い声がそこからこだました。最後に大納言は、あの人の姿を水に写してくれと叫ぶのだが、叶わず。
そのまま川に落ち流されてしまった。
これは、何を言っているのでしょうかね。
強盗に遇ったとき、真っ先に笛を差し出したのに、それを侍女に詰られ、取り返しにいくのに、必死になってももう遅いですよね。
なんか大きな暗喩があるかも知れないですが、どうなんでしょう。
大の大人が、天女の大切なものを即返すのにもったいないので、そこでぐちり結局酷い目にあった、自業自得な話にしか、自分には読めませんなあ。
はじめて本当の恋の知った辛さというふうには、残念ながら読めないです。
閑山寺の和尚さんが、狸を助けて上げる。
その狸は団九郎と名乗り、その後も和尚さんのところを訪ねてくる。お経を唱和し、せっせと仏像も彫る。
世話になった和尚さんが、亡くなった後も寺に残り、団九郎は仏像を彫り続ける。
新たにきた僧は、酒を嗜み、食膳に気を配るような者だった。
団九郎にとっては、耐え難かった。
ある時、団九郎は、雲水の僧に変じて、寺の和尚に渇を入れた。
すると、その和尚は逃げ出してしまった。
必然的に団九郎は、その寺の和尚になり、呑火和尚となのり、座禅三昧で過ごした
法話の集いがある時、村のしれ者が、いたずらをして放屁を誘う食べ物を団九郎の食餌に入れた。団九郎は我慢できず、放屁してしまった。
そこで、自らの未熟なことを悟り、団九郎は、山奥に移りそこで草庵を結んで禅定三昧をすることにした。
旅の一座が、病人の介抱をするためにその草庵を訪れた。
甲斐なく病人がなくなったが、そこの和尚も病気になったみたいだった。が、即座に旅の一座が去ることを求めた。
その一座が去ったとき、後方で大音響がした。
和尚は柱に縋りついていた。
ある時旅人がその草庵に泊まり、眠りについたとき、子坊主が歌いながら、屁をする姿をする夢をみた。
しまった。
粗筋を書いただけになってしまった。
この話で、ここでの主人公は中学時代に高名な占師の妻女から
・ お前さん色魔だね
と告げられます。
・ 中学時代の私は子供にしてはひねくれた理知と大人の落付きを備えた美少年であったとは言え、過剰すぎる夢のゆめに現実をはなれ、少年よりむしろ少年であったようです。
美少年ではなかった者にとっては、羨ましいですね。
そんな人の気持ちは分かりませんがね
色魔ということ言葉にいろいろ考察しています
後年の「日本文化史観」に繋がるような随想も続きます。
・ 最高の内容主義はやがて最高の形式主義に至らざるを得ないからです。
かっこいいですね。
芥川龍之介の文学について書いている下りでは
・ 彼の文学はその博識にたよりがちなものでしたが、博識は元来教室からも得られますし、十年も読書に耽れば一通りは身につくものです。然し教養はそういうわけには行けません。まず自らの祖国と血と伝統に立脚した誠実無類な生活と内省がなくて教養は育たぬものです。
深い芥川の文学についての洞察が続きます。
江戸の戯作者、ジイド、ワイルドと続きます。
論評するには、手に余ります。
・ 彼の生活は血と誠実は欠けていても、彼の敗北の中にのみは知性の極地のものをかり立てた血もあり誠実さもありました。
立ち直ることができずに彼は死んでしまったのですが、そのときは死ぬよりほかに仕方がなかった時でしょう。
・ 芥川のように同じ失意や敗北感も知性の極点のものを駆り立てて追いつめられてみると、これはどうにも死なずにはいられません。
生活することそのものが火宅なんですね。
安川という男が主人公で、その母が度がつく程のケチであって、子供の時飯櫃をこぼしたとき、自分ではなく飯の心配をするほどだった。そういうことを根に持ち育ち、家を出たのだが、食い詰めてその母の家に転がりこむようになった。
相も変わらぬ母の姿に遭遇するのだが、ある時家にあった高価な書画を売り払うと大金を手にできることを知り、その後は、そういう金で安川は遊び歩くことになり、行きつけの居酒屋の取り残された肺病持ちで、癇癪持ちの娘を連れて帰ってくる。
あくまで、母への過去の恨みのあてつけとして
それだけじゃなく、安川の妻の松江も、安川を憎んでいるんですね。
・ 恋は清らかなものだ。百合や薔薇がふさわしいのだ。彼女はそれを信じていた。それだのに自分の描く二人の夢はみだらで汚く息がつまった。肉体だけがのたうちまわった。それを思うと松江は無性に口惜しくなるのだ。盗まれた、何もかも、乙女の生活も金も恋も清らかさも。それをみんなあの安川がしたのだ。
松江は、そのタツノという肺病持ちの女が来るときに逃げ出すことを考える。
そして、安川の友人の遠山という男の家を訪ねる。
このとき安川を弁明した遠山の言葉は、説得力はあるのかないのか分かりませんが、安川という男の内面を抉っています。
そんな人を理解してあげなくっていいのにと思ったりして
でも、その言葉で松江さんは、はたっと気づきもするんですね
そこで安川と再び暮らすことにはなるんです。
遠山の言葉には、
・ そのことだって責任の一半はあなたにもあります。なぜって、二人が一緒にくらしているうちは、ときかく一方を全的に許容している理屈以上の事実だからです。ときかく余り、神経をたぶらかせないのが得策ですよ。
このような言葉があります。
現実世界の離婚を考えている夫婦に、遠山みたいな言葉を投げかけると、石を投げられますわね。
でも、堂々とそういう言葉を投げられるのが文学世界なんです。
タツノを巡って、松江と安川は言い争いの日々をするんですね。
当たり前なんでしょうけど、あり得ない不倫関係で争ってしまうんですね。そういう事実はないと松江さんは知りながらね。
そういう最中に安川は
・ 自分は嘘つきで、浅薄な感傷家で、鼻持ちならぬロマンチストであることを、彼は思いもしなかった。あるがままの姿に於いて、しべてが純粋に受け容れられる素直さのみが分かるのだった。失われた少年の日の思い出のほか、いつの日か再びそれを知りえようと思われた素直さで。
ということで、安川は献身的にタツノに尽くす。
どういうことなんでしょうか。
そして、少年の日とか素直と言う言葉が、なんでここで出てくるのかしら。
そのタツノもとんでもない女で
・ タツノには鞭のように強靭な、人に馴れない野性があった。そういうタツノが人に好意を見せるとしたら、好意のしるしに人の眼を突く鳥のように、タツノもこんな表現をとるよりほかに仕方がないのではあるまいか。
なんだって。
どういう状況なのか、読んでいて分からないくらいですね。
これぞ極限状況。
安川はタツノに仕えることを
・ 奴隷を見下す王女のようなものであった。それはたしかに滑稽だった。然しタツノが手当たり次第の本やインクを投げつけるのを、まるで白痴か不死身のように敢えて怒りもしなければ身もよけもせず、当たるものは勝手に当たらせ、痛む傷は勝手に痛ませ、こうして黙ってたっているのがとりわけ不快なことでもなく莫迦莫迦しいとも思わないらしいと彼は思った。
この先壊れています。
伏せ字が出ています。
・ そういう羞恥が強いだけの助平根性も激しいわけだと彼は誰への気兼ねでもなく、自覚せざるえないのだ。
どうやらエッチな展開になっているとは予想はされるんですが
難解な文章ですね。
エッチしたいということによるお互いの行動だったとみていいのかな。
大人って複雑。
そして安川は、ひょこっと首をくくって死んでしまった。
読んでいて、なんじゅそれは。
遠山の言葉で終わり。
こんな終わり方でいいのでしょうか
・ とにかくその趣味は多方面にわたり、かつその全生活が趣味以上にでなかった。趣味以上にでるためには必然その道に殉ずる底の馬鹿も演じとかくの批判も受けなければならないのが阿呆らしくもある様子にみえた。人の弱身に親身の思いやりがあり且甚だ誠実であるというので、窮迫の時も友達に厭がられず愛されたものだが、その誠実や思いやりの由来するところは、要するに人の欲念の醜さを充分に知悉し自身もその欲念に絶えず悩まされているが、そうして欲念を露出しそれに溺れる人生こそ生き甲斐のあるものではないかと考えてみるが、自身は世間に当然許された破戒さえ為かず勇気がないという、自意識過剰の逃避性からきているように思われた。
長々と引用しました
ちょっと考え込みました
でもそこで、この話で
紅庵が
・ 一人くらい隠し女を持たなかったら、一人前の男じゃないよ
と言っております。
大人の世界って奥が深いものなんですね。
その紹介された女に手を出した伴作さんは、女の希望で、紅庵sなんが知らないアパートを見つけそこに移らせると、ある日忽然とその女はいなくなってしまった。
影で紅庵が手引きをしていたらしいということなのだ。
暫くすると、紅庵がやってきて、その女蕗子が引っ越した真相を語りだし、納得しがたいのだが、蕗子のところに行ってみる
すると、引っ越した理由が違っているみたい
伴作が紹介したアパートには、蕗子の夫の友人が住んでいるらしいのだ。
そこで、夫持ちと判明する
つらつらと綴られる大人の事情と心情。
理解しがたいです。
実にややこしい。
でも、こういうくねくねを辿ることが、文学なのかしらとも思ったりもしますね。
どんどん絡めとられて行く伴作。
実に感慨深いです。
この小説では、つかみのところでは
・ 恋情の発するところ自然にして自由なるべきものが、然し決して自由ではない。このことほど型を逃れがたい、又自らの姿勢を失い不自由なものはほかに少ないようである。
とあります。
これでは、ただの立派な言葉なんですが、
この話は
・ 私の知人にもう五十を越えたAという絵の先生があった。三十名近い女弟子がいる中から、いつも五六人の美少女を引率れて盛り場をぶらついている先生で、その時の様子は甚だ福々しく楽しそうで、我々がそれらの美少女の一人に恋をしない限り、決してそういう先生の姿を憎むことはできない。
憎むことはできないとありますけど、美少女をネタにした話であることは、示されていますね。
先生が美少女の一人に恋をし、あえて散歩に快活で麗しい青年どもも連れていくようになる。
結果は、分かり切っていますわね。
先生の恋する美少女が青年と結婚してしまう
先生が何故青年たちを散歩の共にしたんだろう。
その謎を考えるのが、この話なんですね。
そんなもの知らんわいなどと言ったらいけません。
そこに実に滋味深い安吾先生の考察があります。
ネット時代って、本当に良いですね。
過去に絶版になった本を手に入れることができるようになるんだからね。
去年、衝撃的な出会いをした坂口安吾の全集も手に入れることができるのは、嬉しいことです。
その中でも、「木々の精、谷の精」は、昨年の自分にとっては最も大きな発見の二つのうちの一つです。(もう一つは、「背教者ユリアヌス」)
その「木々の精、谷の精」と同時代に書かれた作品を収録された、ちくま文庫版「坂口安吾全集03」を購入することができた。
郵便でやって来たとき、まず本の背表紙を頬につけてスリスリした。
嬉しいワン。
この喜びを、どう表現すればいいのかしら。
そして早速読み始めてみた。
ます「禅僧」という作品から。
のっけから、毒舌炸裂。
・ 禅僧に限らず村の知識階級は概して移住者でありすべて好色のために悪評だった。医者がそうである。
・ 知識階級の移住者には小学校の先生もあるが村人の眼にあまるのである。ところがそういう村人は森の小獣と同じように野合にふけっているのである。盆踊を絶頂にした本能の走るがままの夏期にたわむれ丈余の雪に青春の足跡をしるしている夜這い、村人の生活からはた又思い出からそれをとりのぞいたら生々しいとした何が残ろう!
野合って分かりますか。辞書を引けば分かりますが。
つまりあれをしてしまうことなんです。
というように、強烈な言葉の羅列があります。
教育関係者は、安吾先生を読ましたらいかんのではないかね。
その後も、こういう強烈な言葉で、好色な者たちが出てきて描写されます。
お綱という好色な女に、ある禅僧が目をつけられるんですね。
絶対絶命だ。
危うし坊さん。
その女にとって、男とあれをすることは
・ 子供がパチンコで豚をねらうよりよほっど無邪気で罪悪の内省がないのですよ。いじらしい女です。正体はただそれだけでつきるのですがー
正体はそれだけで、すむ問題なんですか。
この話は、そういうところから、転々としていて、実はそういう話でもないかのような様相を呈しています。
大変書きづらいし、説明しにくいです。
この禅僧は、何をしたいのか、理解しにくい行動をしております。
これが裸の人間というものなんでしょうか。
R指定みたいで感想を書きにくし、どう書けばいいのかも分かりません。
でも安吾先生の締めの言葉
・ 話を深刻まかしてはいけない。北方の山奥に雪が降ると、毎日毎日同じ炉端に集まる人達が、よもやま話をするそういう話題のひとつである。
これでは、良い話みたいじゃないですか。
と突っ込みを入れることはできると思いますね。
題名がかっこいい。
そして出だしも
・ 私はいつも神様の国へいこうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。
これから何が書き出されるのか、ワクワクしてしまいますね。
そしてグダグダ述べる
・ 私は悪人です。と言うのは、私は善人ですと言うよりもずるい。
みたいな名言をいろいろ述べるところで、
出てくるのは、女の話。
・ そういう安心を私に与えてくれるのは、一人に女であった。
やっぱりそこなんかい。
こういう書き方になってしまったのは、戦後生き残っていまった者の気持ちを代弁しているのかもね。
なんだかんだ言っても、戦地に行った人の苦労は並々ならぬものがあったのに、内地でなんとかやっていけた者の自戒があるのかな。
その女は、不感症で、ここでの主人公はその肉体のみを好きだといい。
・ 私地震が一人の女に満足できる人間じゃなかった。私はむしろ如何なる物も満足できない人間であった。私は常にあこがれている人間だ。
こういうふうに書いてしまえるのは、安吾先生は正直者だと言えるけど、ろくでなしとも言えますわね
でも、ここから性欲だけではない世界を提示するのは、凄いですね。
そこから高みに登りますか、
・ 「あなたが私の魂を高めてくれなければ、誰が高めてくれるの」
・ 「なによ、私のからだになぜさわるのよ。あっちへ行ってよ。」
なる会話を同時にしている。やはりただのエッチな人なだけのような気もしますね。
そしてエッチなだけではない、彼方に詩の世界があり、
最後の素晴らしい海の描写へ、
この場面だけ、取り出したら、すんごくいい話みたいで、美しいのだけど、
動機が不純なんで、美しい描写だけど、ちょっとそれは、なんて思ってしまったりして、
この話が、題名のかっこ良さの割に、話題にされない理由も読んでみて分かったわね。
久しぶりに安吾先生の本を読んでみた。
この作品は十年くらい前に映画化もされて、ちょっと話題になったね。
褒めながらいたぶって書いているね。
安吾先生の性格の悪さが出ているね作品かも。
この諧謔的な書き方は、作風だよね。
思い切り漁師たちを褒めちぎる
・ 漁師たちというものは、実にあたたかくて、親切なものだ。オ早ヨオ、だの、コンバンワなどと月並みな挨拶は全然やらない。ほかに気の利いた代用品を用いているわけではない。つまり、ゼンゼン喋らないのである。どんな親しい間柄でも黙って往来をすれちがう。頭も下げない。彼らは魚に同化して、ムダなことを喋らなくなっているらしい。魚が挨拶したら、おかしなものだ。鯛なような人もいるし、ヒラメのようなジイサンもいる。アンコーにそっくりのおっさんもいるし、イワシのような娘もいる。
「木々の精、谷の精」のような描写ではないわね。
人間全て魚に見えてしまっている。かなりシニカル。
そこに戦争を経てしまったことの経験が影を落としているのだろうかね。
漁師がいつも新鮮な魚を食することによる美食家だと語り
・ 彼らは心が正しいから、心のよこしまな人とつきあうことができる。どんな善良な人とでも、どんな邪悪な人とでも、つきあうことができるのである。
そして、美食家である故に、偏食になり病気になりがち、医者が必要となる。
そこで登場する医者が、医学博士を持たない妖しげな人物。
肝臓先生だね。
登場まで、この話の半分ぐらいを費やしている。
そこから、肝臓の病気の話ばかり
なんでも肝臓病にしている
自分は、ここはあざとすぎて、乗れなかったわね。
どうでもいいじゃん。と思ってしまったりして。
最後に肝臓先生は、不慮の死。いやいや勇者の死を遂げ
この話の語り手が、詩にすることでこの話は終わっている。
これは良い話なんだろうね。
妖しげな人物でも、義侠心に富んだ英雄的所行をすることがある。
そこに人間の不思議なところがある。
ということなんでしょうかね。