殉教者製造人 マントー/片岡弘次・訳
この物語の語り手が主人公で、彼は自分のやって来た来歴、これからするべきことを語った。その男は麻薬の密売をしていたのだが、そのうち口達者のこともあり、それ以外の儲け口で一財産を築き上げた。いざ財産を作り、嫁を貰ってみると、自分の心の中に空白があることを知り、善行を積んでみた。いろいろ人の助けをしてみて、その行いを受けた人を観察してみると、人の願望は多様で、そのすべてをかなえることは不可能だと知った。ある時デモがあった時に混乱が起こり多数の死亡者がでた。翌日の新聞でそこで亡くなった人を殉教者と書いているのをその男は見た。男は、不慮の死が殉教となるのだというならば、死を迎えようとする人に、死を訪れ易くしてやることが、最大の施しなのだという考えに至った。そこで、この男は古い屋敷を買い取り、宿無し人を招き入れ、そこに雨が降って多くの人が屋敷の屋根が落ち、多くの人が亡くなったことを喜び、さらに屋敷を建築させ、途中でその屋敷が崩れるように設計して、また多くの人を殉教させることができると思ったのだった。
この男は、静かに狂っているわね。
以前にも書いたように、人間の自然な感情が何処か欠落しているわね。
彼にとって、善悪の観念が欠落しているということだし、そういう男を生んだ土壌に貧困があるということなんだろうね。
それと、人はなんで生きるのか、というのはその人が人生の最後の一日まで懸命に生きるからこそ意義があるのであって、殉教して天国に行くために生きているわけではないわね。
この話も「デスノート」や「ファウスト」とかの最後の結末にも通じるものがあるかも
ファウストにおいて、数々の悪行を積み、最後にその魂が悪魔に持って行かれるところで、救いがあるのは、最後の最後まで、良く生きたということがあったからであって。
天上界では、その人生が長いか短いか、善を多く為したか。悪行を積んだかというのと違った判断を下されるところだということなんだろうかね。
なので、死にかけているからといって、それを幇助することが、本当に良き行いかどうは分からないとも言える。
「デスノート」のライトが最後まで、観念の世界に縛られているのは、凄く滑稽であって、短い人間の生の限界を示しているに過ぎないと言えるかも
この作品の最後が薄ぺらく感じた人は多かったのでは
悪人度チェック
この男は、かなりの悪人と言えそうだ9くらいかな。
まだまだ修行が足りない自分には、とんでもない悪人が沢山いるみたい。
もっと悪人については知りたいわね。
ただし怖いのは苦手なんですけどね